鳥取城跡 (Tottori Castle Ruins)と鳥取県立博物館

鳥取城は、鳥取県鳥取市(因幡国邑美郡)にあった戦国時代から江戸時代の日本の城です。国の史跡に指定され、別名は久松城(きゅうしょうじょう)・久松山城(きゅうしょうざんじょう)と言われています。山名氏・武田氏・尼子氏・毛利氏の争奪戦の舞台となり、織田信長の中国攻めでは、家臣の羽柴秀吉が兵糧攻めを用いて攻略しました。開城後、入城した宮部継潤によって山上ノ丸の改修が行われ、江戸時代には鳥取藩池田氏の治下に入り、麓の二の丸以下の曲輪が拡張されました。現在は天守台、石垣、堀、井戸などが残っています。戦国時代から江戸末期にかけての城郭形態の変化を窺うことができることから「城郭の博物館」の異名を持つそうです。
 戦国時代中頃の天文年間、因幡の守護である山名誠通が久松山の自然地形を利用した山城として築城したとされてきましたが、近年の研究では誠通の因幡山名氏と対立する但馬山名氏(山名祐豊)の付城として成立した可能性が支持されています。正式に城主が確認されるのは、元亀年間の武田高信からです。
 1580年(天正8年)に織田方・羽柴秀吉の第一次鳥取城攻めで3か月の籠城戦(この時の籠城費用は、全て豊国が負担している。)の末、9月に豊国は和議により信長へ降伏、臣従しました。
 ところが、同月毛利氏の来訪で再度の降伏、鳥取城は牛尾春重が城将として入りました。何人かの城将の入れ替えの末、1581年(天正9年)3月毛利氏の重臣である吉川経家を城主として迎えることになりました。
 同年4月、因幡守護の山名豊国の織田氏への内通が発覚、豊国は秀吉の下へ出奔しました。残存する山名氏旧臣は毛利氏への従属を継続したため、信長の部将で中国地方の攻略を担当していた羽柴秀吉は2度目の鳥取城攻撃をすることとなりました。
 秀吉は播磨・三木城攻め(三木合戦)で行った兵糧攻めをここでも実施、後に『鳥取城の渇え殺し』と言われる程凄惨な兵糧攻めとなりました。
 『陰徳太平記』によると、秀吉は若狭から商船を因幡へと送り込み米を高値で買い占めさせる一方で、1400の兵が籠る鳥取城に付近の農民ら2000以上を城に追いやりました。さらに河川や海からの毛利勢の兵糧搬入も阻止しました。このとき城には20日分の兵糧しか用意されておらず、この作戦により瞬く間に兵糧は尽き飢餓に陥りました。何週間か経つと城内の家畜、植物などは食い尽くされ、4か月も経つと餓死者が続出しました。 『信長公記』には「餓鬼のごとく痩せ衰えたる男女、柵際へより、もだえこがれ、引き出し助け給へと叫び、叫喚の悲しみ、哀れなるありさま、目もあてられず」と記され、人肉を食らう者まで現れたとされています。 同年10月25日、城主の経家は切腹し、その代わりに将兵は助命するという条件で開城しました。
 開城後、飢えた将兵には粥が振る舞われましたが、多くの兵がまもなく命を落としました。『信長公記』では「食べた人は食に酔ってしまい、過半数がすぐに死んでしまった」としており、『豊鑑』では「粥をたくさん食べたものはすぐに死んでしまったが、少し食べたものは問題なかった」とされています。この記録から低栄養状態で高栄養を摂取することで低血糖や電解質異常を起こして死に至るリフィーディング症候群ではないかという説が唱えられています。
 開城後の鳥取城には浅井氏の旧臣で秀吉の与力となっていた宮部継潤が城代として入り、織田勢の山陰攻略の拠点としました。
 宮部継潤は豊臣政権に代わった1585年(天正13年)の九州征伐で功績を挙げ、因幡・但馬のうち5万石を与えられ、正式な鳥取城主となりました。
 継潤の没後は子の宮部長房が受け継ぎました。1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで宮部家は西軍に所属したため、関ヶ原での本戦後長房は改易されました。
 関ヶ原の戦いの近江甲賀郡水口岡山城攻めでの功により、池田長吉(池田氏)が6万石で入り、池田氏によって近世城郭に改修されました。
 1617年(元和3年)、さらに池田光政が因幡・伯耆32万5,000石の大封で入府、鳥取城も大大名に相応しい規模に拡張されました。光政によって城下町の整備も行われました。その後、ふたたび備前岡山藩に入っていた池田氏(長吉とは別系)と所領の交換が行われて池田光仲が入封、そのまま12代続いて明治維新を迎えました。
 鳥取城は、1876年(明治9年)鳥取県が島根県に編入されると、県庁所在地(松江市)以外に城は必要なしとの観点により、陸軍省によってすべての建造物は払い下げられ、1877年(明治10年)より1879年(明治12年)にかけて中仕切門と扇御殿化粧の間を残して解体されました。最後に取り壊されたのは、鳥取城を象徴する建物となっていた二の丸の御三階櫓でした。唯一現存していた中仕切門も1975年(昭和50年)3月に大風によって倒壊しましたが同年秋に木造復元されました。現在は天守台、石垣が残っており、国の史跡に指定されています。昭和44年から昭和51年まで、山麓北西から観光用のロープウェイが運行されていました。
 1993年(平成5年)、鳥取城正面入口に吉川経家の銅像が建立されました。2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(63番)に選定されています。
 2005年(平成17年)に「史跡鳥取城跡附太閤ヶ平保存整備基本計画」が策定されました。これは鳥取城を2006年度から30年の歳月と51億2千万円をかけ、幕末期の姿へ木造復元する計画です。これによれば、まずは2015年までに中之御門大手門登城ルート、追って下馬場番所、太鼓御門、御三階櫓、土塀等を木造復元する計画となっています。2011年(平成23年)5月、天球丸の巻石垣の修復が完了しました。しかし2014年6月、天球丸の巻石垣の石が抜き取られる事件が発生しました。
 令和元年11月から令和3年3月にかけて大手門の木造復元工事が行われ、令和3年3月13日から一般開放されました。

 鳥取城は標高263メートルの久松山頂の山上の丸を中心とした山城部、山麓の天球丸、二の丸、三の丸、右膳の丸などからなる平山城部からなる梯郭式の城郭とすることができます。さらに西坂・中坂・東坂などの尾根筋には戦国期の遺構が数多く残されており、戦国時代から近世、さらに幕末までの築城技術が一つの城地に残る城跡です。
 藩政期の鳥取城の建造物については、数多くの古絵図が残されているほか江戸後期の鳥取藩士岡嶋正義の『鳥府志』に詳しく記述されています。
 山上の丸には、天守、車井戸、御旗櫓、着見櫓、多聞櫓などの建物がありました。東方に二の丸・三の丸と見なすことのできる2段の郭があります。本丸西方の一段下には出丸があり、下段の御櫓のほかに馬場も設けられていました。
 天球丸は二の丸の一段上、平山城部の最高所にあります。池田長吉の姉で若桜鬼ヶ城主・山崎家盛の夫人だった天球院が山崎家を去った後に居住していました。三階櫓、御風呂屋御門などの建物があり、池田光政入封後も天球院の居所が存在していたといわれています。享保5年の石黒火事で焼失し、長らく放置されていましたが、幕末には不穏な世情を背景にお稽古所が設置されました。
 近年の石垣復元に伴う発掘調査から、池田長吉による慶長の大改築の際に、宮部時代の石垣をもとにして郭が拡張されたことが明らかになりました。また、この頃は現在の凸の字状の郭ではなく、東側が3段の石垣で造られ、中心部は2段の石垣で構成されていたことも明らかになっています。現在のような形になったのは、長吉の後の池田光政の改築によるものと考えられています。
 さらに、江戸時代後期、1807年(文化4年)頃に石垣のたわみを防ぐために球面を持つ巻石垣によって石垣下部が補強されたことも明らかになり、巻石垣が復元されました。こうした巻石垣は港や河川の工事に用いられるのが主で、城郭の補強に用いられるのは、きわめて珍しい例と言われています。
 二の丸は江戸時代初期には藩主の御殿が置かれ、鳥取城の中心でした。周囲に御三階櫓、走櫓、菱櫓などの建物がありました。大手の入り口は鉄御門(くろがねごもん)。1718年(享保3年)三の丸に新御殿が建設されると二の丸が使われることは少なくなりました。石黒火事で全焼したあと、御三階櫓と走櫓が再建されたのみで長らく放置されていましたが、1844年(弘化元年)再び二の丸御殿が建設されました。1849年(嘉永2年)には御三階櫓の西方が拡張され、角櫓や登り石垣が建造され、幕末には菱櫓も再建されました。
 御三階櫓は二の丸の南西隅、市街地に面して建っていた3層3階の隅櫓です。池田光政による元和の大改築時に建造されたと考えられており、山上の丸の天守が焼失してからは鳥取城を象徴する建物となりました。石黒火事で焼失したあとも8年後に再建されました。
 1階は8間四方、2階は6間四方、3階は4間四方と規則正しい逓減率となっています。古写真によれば、黒の下見板張り・瓦葺きで、飾り破風は一切ありません。櫓台の東側に入り口が設けられ、階段を上ると1階中央に達するようにできていました。諸記録には、軒高4丈5尺(約14.8メートル)と記されていますが、城郭建築史家の松岡利郎氏は古写真より復元図を起こしたところ、櫓台からの高さは17.8メートルであったと推定しています。隅櫓ではありますが、その規模は三重天守の宇和島城天守(15.7メートル 3層3階)、丸亀城天守(14.5メートル 3層3階)をしのぐ規模で、ほぼ同じ高さのものでは、犬山城天守(18メートル 3層6階)があります。

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