【廃村】宮崎県「寒川集落」の誕生と終わりの歴史

宮崎県西都市にある寒川集落

■米良の地名の由来
イワナガヒメ(岩の神)は、鏡に映った自分の醜さを嘆き、失意のうちに西米良の地にたどり着いたとされ、そこで自ら米や野菜を育て、豊かに実ったのを見て「ヨネヨシヨネヨシ(米良)」と言って喜んだのが「米良」の地名の由来になったと伝わります。
※コノハナサクヤヒメ(木の神・富士山の神)の姉、大山祇神(山の神)の子

■菊池氏の始まりから米良氏になるまでの歴史
菊池氏の始まりは平安時代中期の延久2年(1070年)頃、
藤原道隆(みちたか)の血を引くといわれる藤原則隆(のりたか)が肥後国(現・熊本県)菊池郡に下向し、
この地の在地豪族として土着したことに始まります。

則隆は「菊の池」の近くに館を構え、地名を冠して「菊池」を名乗りました。
※菊池郡(熊本県菊池市)の由来
この池が「菊の花」の形に似ていたことから、「菊之池」と呼ばれ、ここから「菊池」の地名が起こったと言われる。また、池の周りに菊花が咲き乱れていたので、菊之池と呼ばれたとの説もある。

肥後国(熊本県)を本拠地とした菊池一族は、当初平氏の有力な家人として九州における基盤を支えていました。しかし、源平の勢力逆転に伴い、次第に源氏(鎌倉幕府)側へと勢力を転じ、その後の九州における主導権を確保しました。

■源平時代
11世紀末より肥後国(熊本県)を本拠地とした菊池一族は、平氏政権下では大宰府周辺を拠点に平氏方として行動しました。
平氏が源氏に追われて都を落ち、九州へ逃れてきた際も、6代目・「菊池隆直(たかなお)」は数千騎の軍勢を率いて彼らを迎え入れました。

源平合戦の最終決戦となった壇ノ浦の戦い(1185年)において、菊池一族は平氏軍の主力として参戦しました。
隆直は自ら数百艘の軍船を率いて海上戦に挑み、最前線で源氏軍と激突したと伝えられています。しかし、激戦の末に平氏は滅亡し、敗れた隆直は命からがら戦場を離脱して本拠地の肥後へと撤退しました。

勝利した源頼朝は、平氏に味方した九州の武士団を厳しく処分しようとしました。
絶体絶命の危機に陥った隆直でしたが、源氏側の有力者を通じて頼朝に全面降伏し、謝罪の意を示しました。
その結果、領地の一部没収などの制裁は受けたものの、本拠である肥後国菊池郡の支配権(本領安堵)を認められ、一族の滅亡という最悪の事態を回避することに成功しました。しかし、源頼朝は平氏に加担した隆直を許しませんでした。
1185年、菊池隆直(6代目)は鎌倉の由比ヶ浜、あるいは京都の六条河原にて斬首されました。

壇ノ浦の戦いなどで平氏方の主力として奮戦した結果、嫡男(長男)の菊池隆長や三男など、次世代を担うはずだった息子たちを源氏との激戦で失いましたが生き残った次男の「菊池隆定(たかさだ)」が、7代当主として家督を継ぐことが許されました。

■鎌倉時代の「忍耐」と「不満」(7代~11代)
源頼朝に降伏して本拠地・肥後国菊池郡を安堵された7代・隆定(たかさだ)以降、菊池氏は鎌倉幕府の「御家人(将軍の家臣)」としてじっと耐え忍ぶ時代が続きます。

13世紀後半の「元寇(モンゴル襲来)」において、10代・武房(たけふさ)は最前線で凄まじい活躍を見せました。しかし、命がけで戦ったにもかかわらず幕府からの恩賞(ご褒美)はごくわずかでした。
この「命を懸けても報われない」という幕府への強い不満が、後の時代に菊池氏が倒幕(幕府を倒すこと)へと立ち上がる最大の原動力となっていきます。

■南北朝の「黄金時代」と九州統一(12代~15代)
鎌倉幕府が滅亡し、足利尊氏(北朝)と後醍醐天皇(南朝)が対立する南北朝時代に入ると、菊池一族は歴史の主役に躍り出ます。
12代・武時の玉砕: 後醍醐天皇の命を受け、九州でいち早く倒幕の兵を挙げましたが、味方の裏切りにより壮絶な討死を遂げます。しかし、この「天皇への忠誠(勤皇)」が南朝から絶賛されました。
15代・武光の九州制覇: 南朝の皇子・懐良親王(かねよししんのう)を擁立した15代・武光は、「筑後川の戦い」で北朝軍を打ち破り、大宰府を制圧。約12年間にわたり九州を実質的に支配する菊池氏の最盛期を築き上げました。

■室町〜戦国時代の「衰退」と「内紛」(16代~21代)
しかし、黄金時代は長くは続きませんでした。室町幕府の力が強大になると、南朝側だった菊池氏は徐々に追いつめられていきます。
大内氏・大友氏の台頭: 周辺の強力な大名(山口の大内氏、大分の大友氏など)からの圧迫が強まり、領地を削られていきます。
身内同士の争い: さらに致命的だったのは、当主の座を巡る一族内の激しい権力闘争(内紛)です。これにより家臣たちの心は離れ、かつての強固な団結力「菊池精神」は失われていきました。

■肥後追放と「米良・寒川」への逃避行(22代・能運~)
戦国時代の足音が近づく16世紀初頭、ついに名門・菊池氏に終焉の時が訪れます。

22代・能運(よしゆき)の敗北: 大友氏の介入や重臣の反乱により、当主である能運は肥後を追われ、若くして病死(または戦死)してしまいます。これにより、大名としての菊池氏は事実上滅亡しました。

日向の奥地へ(1501年頃): 一族の血筋が途絶えることを恐れた能運は、死の直前、自身の子である「重次」を弟の重房に託し、九州山地の険しい山奥である日向国の「米良山中」へと密かに落ち延びさせました。

「米良」への改姓と隠れ里: 追手の目を逃れるため、彼らは誇り高き「菊池」の姓を捨て「米良(めら)」と名乗るようになります。こうして、現在の宮崎県西都市や西米良村にあたる深い山間部に隠れ住み、独自の合議制で統治を行ったのが、寒川集落を含む「米良荘」の始まりです。

■菅原道真公と菊池氏の関係について
「祖先」としての繋がり
肥後の名門・菊池氏は、古くから「菅原道真公の末裔(まつえい)」を自称する家系です。道真公の孫やひ孫が九州に下り、菊池郡に土着したのが始まりという伝承を持っています。

「氏神」としての崇拝
寒川を開拓した米良(菊池)氏にとって、道真公を祀る「天神様」は単なる信仰対象ではなく、一族を守る「ご先祖様」でした。そのため、集落を開いた際、真っ先に寒川天神社を建立しました。

「誇り」の象徴
戦乱に敗れ、山奥で「米良」と名を替えて隠れ住んだ一族にとって、道真公を祀ることは「自分たちは高貴な血を引く武士である」というアイデンティティ(誇り)を保つための心の拠りどころでした。

00:00:00 始まり
00:01:53 Google Earth
00:09:47 徒歩で集落向かう
00:10:42 寒川集落の歴史
00:19:37 寒川集落
00:41:16 寒川天神社 鳥居
00:45:21 寒川天神社
00:50:25 校庭~
01:05:46 説明補足
01:15:55 空撮

【神秘旅 – Mituki】サブチャンネル
https://www.youtube.com/@MysticalTravels
【隠者の小屋】サブチャンネル
https://www.youtube.com/@Hermit-Hut
【Instagram】
https://www.instagram.com/Gods.Travels/
X(旧Twitter)

Facebook
https://www.facebook.com/mikamoto.mituki
Threads
https://www.threads.net/@Gods.Travels

20件のコメント

  1. 細い山奥、パンクしたらレッカーサービスも別料金だろうし今回も悪路お疲れ様でした。動画、とても寂しさを感じる内容でしたが、領主の土地を分け与えた話はとても感動的でした。市営住宅を造る条件が、2度と住まない事だったとは市長も住民も悲しい決断だった事でしょう。今回も動画ありがとうございました。

  2. まだ住人がいたころの映像を途中に出されていますよね? その映像は、故大町信平氏が生前に8mm・16mmフィルムで長期間にわたって撮影された密着ドキュメンタリー作品です。歯科の開業医さんでおられましたが、アマチュア映像作家としても大変有名でした。いくつかの賞も受賞されていますよ。離村した後の様子をリアルにアップされて、大町先生もきっと喜んでおられると思いますよ。

  3. 校舎はほとんど崩壊して潰れていますね。
    私が2〜3年前に行った時はまだ手前部分が立っていたのに崩れるのが早いですね

  4. またすごいところに行ってますな。お疲れ様です。
    ご存じかもしれませんが、大分市にも、米良という地名がありますよ。

  5. 宮崎県を取材して頂き有り難うございます。日向市市からなんで少し遠いですが後を追って行ってみたいと思います。
    仕事でとてつもない山道の集落にたまに行ったりしますがいつかはこうなるかも知れないと思うと切なくなりますね。

  6. ミツキさんの動画を観ないと、おそらく知ることのなかった寒川集落の歴史🥹本当に素晴らしいです。結構規模が大きい集落だけあって、至る所に通路や階段残ってて当時の生活を思いえがくと何とも切ないような複雑な気持ちになりました。大変勉強になりました。ありがとうございます。遠いけど、いつか行けたらいいなぁ…

  7. 昭和40年で200人程いた住民が僅か5年で半減してるんですね。随分賑やかに見える昭和47年頃の運動会もだいぶ住民が去った頃なんですね。

  8. 未来永劫ではないことを考えさせられました。だからこそ今を大切に生きなければと思いました。ありがとうございました。

  9. やはり行く場所が悪路ありですから軽トラ(4WD デフロック付き)が良いですよ。
    ジムニーより小回りが利くから山の中は軽トラです。(スコップ、ノコギリも持参必修)
    あと、廃神社はあまり近寄らない方がいいらしいです。

  10. 寒川天神社は拝殿がかなり荒廃しているのに、本殿はあまり損傷が見られないですね。もともと造りが違うのかもしれませんが、神様が毅然とそこに鎮座しているような感じを受けますね。
    往時の映像が時々はさまれていて、どんな集落だったかよくわかるとともに、人が去った後の寂しさもひとしおですね。丁寧に墓じまいされて集落を去った人々には、この地に代々住んだ先祖たちへの敬意と一抹の無念さがあったのではないでしょうか

  11. 50:30 切ってないですよ、もっともっとと欲しがりました(笑)
    最後の住人夫妻が生活されてた映像からの現在の家屋姿には物悲しさを感じ、胸が締めつけられてしまいました。
    寒川天神社の鳥居が映し出されたときはゾクッと感動。
    最後のドローン空撮(現在)からヘリ空撮(過去)への切り換えも感動しました。素晴らしい編集センスですね。
    水路記念碑裏の字幕入れ大変だったのでは(汗)
    意訳までこなし(こなせ)流石です。ミツキさんは本当 知的なかただなと改めて思いました。
    寒川天神社、境内の広さ含め思いのほか立派な神社で驚きです。神様が鎮座されてるなか今では手付かずなのは残念に思います。
    ただ、廃村となったことへは違う感情を覚えてます。
    高度経済成長が訪れ山間集落の不便や不十分さが強調されだし、若者も無く高齢化する集落の行き着く先は廃村。
    これは自然なこととも言えるなと。
    なので集団移転に葛藤や悲しみが伴ったとは言え、不便・苦労が多かったなか代々400年もこの地を守ったことは、胸を張るべきことと思いました。
    集団移転時にもし今の自分がその場に居たら、お疲れ様でしたと拍手で住民の方々を見送ったと思います。

  12. 寒川は日本🗾で一番有名な廃村と言われてますが理由はドキュメンタリービデオが残りYouTubeでも拝見出来るからでしょうね😊

Leave A Reply