【桜井市の歴史・遺跡&古墳編】邪馬台国は奈良にあった⁉ 村瀬先生のぶらり歴史歩き 奈良・桜井市遺跡&古墳編

【村瀬先生のぶらり歴史歩き】#74 奈良・桜井市遺跡&古墳編
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前回に続き舞台は奈良県 桜井市!
後編では・・・あの卑弥呼がここにいた!?
その手掛かりとなる遺跡や古墳を深掘りします。

邪馬台国は奈良にあった⁉
卑弥呼の墓かも⁉箸墓古墳
三輪そうめんの歴史とは⁉

村瀬先生がわかりやす~くご案内します!

出演:村瀬哲史・川岸ゆか

00:00 オープニング・古代史最大の謎 纏向遺跡
06:39 もしかしたらあの方の墓⁉ 箸墓古墳
12:02 海柘榴市(つばいち)とはどんな所?
15:10 金屋の石仏
17:01 三輪そうめんの歴史とは⁉

【桜井市・大神神社編はこちら】

eo光チャンネル 「村瀬先生のぶらり歴史歩き」
この番組は、大手予備校、東進ハイスクールの人気講師・村瀬先生が古地図片手に、今と昔の街を見比べながらぶらり歩き様々な歴史スポットをたずねる番組です。
古地図を見れば知らない歴史が見えてくる!

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#村瀬先生 #川岸ゆか #奈良 #桜井市 #大神神社 #eo光チャンネル #eo

10件のコメント

  1. 今日もグーグルマップとともに楽しみました。
    三つの古墳に三方を囲まれている纏向小学校があるなど凄い!?土地だと感じましたし、そもそも発掘調査は纏向遺跡のまだ数%しかされていないとか。
    当然、今後は質、量ともに今まで以上の発見が予想される凄い場所なんですね。

    1970年代後半に乗った桜井線は朱色とクリーム色の2色のディーゼルカーが行き交っていましたが、当時はまさかこの辺りで こんなに大規模で歴史上重要な発見がされるとは想像もしていませんでした。

  2. “御肇国天皇”と書いて『ハツクニシラススメラミコト』とは読めない現代の日本人は、橿原の地がそもそもどんな場所なのかと聞かれたら、何て答えられるのでしょうね…?

    “古事記”や“日本書紀”の物語を、戦後世代の既にいい歳を重ねた大人が知らないことが、日本人として“恥”なのではないでしょうか…。

    私を含め、現代日本人に必要な教養を挙げるならば、間違いなく“記紀”です。

  3. 纏向遺跡や箸墓古墳がある桜井市が観光客誘致の為にマスコミと結託して邪馬台国畿内説を喧伝している。
    遺跡が3世紀のものである物的証拠は皆無であり(3世紀の桃の種は日本中から出土する)、埋葬品(土器、鏡等)からすると遺跡は4世紀のものである。
    マスコミが繰り返しウソを拡散すると、やがて世の中の定説となり教科書に載ってしまう。
    そうすると子供達が間違った教育を受けてしまう。
    朝日新聞が世界中にウソを拡散した従軍慰安婦の軍による強制性問題がその典型である。
    一度拡散された情報を元に戻すのは困難である。
    マスコミは桜井市埋蔵文化財センターや纏向学研究センターのウソをこれ以上喧伝してはならない!

  4. 箸墓は豊代だと思っていますが、平たい平野で見通しも良く、気候も安定していて都には最適な場所ですね。

  5. 魏志倭人伝によると、247年の遣使の直後に死亡したらしいヒミコの墓が箸墓古墳かも。倭人伝の造墓記事に似ている。石野浩司文学博士さんと同じ見解をされていて嬉しいです。ヒミコが崇神天皇の叔母で巫女だつたら色んなことが納得いきます。

  6. 邪馬台国と卑弥呼

     倭国大乱の原因は孝霊天皇をめぐる出雲族の姫たちの嫉妬であった。卑弥呼は第7代孝霊天皇の皇女・日女命又の名は倭迹迹日百襲姫命である。稚日女命と倭姫命は霞会館(藤裔会)に名前を変えられた卑弥呼であった。内藤湖南(倭姫説)と笠井新也(倭迹迹日百襲姫説)はどちらも正しかった。霞会館(藤裔会)の国史改ざんとフィクションの創作によって混乱が生じていた。

     卑弥呼の出身は鳥取県湯梨浜町宮内(黒田庵戸宮)である。

     魏志倭人伝に「倭の地ではその身体に朱丹を塗る」とあるが、鳥取県中部の古墳から出土した人骨42体(歯のみは省略)のうち11体(26%)は朱を塗った状態で亡くなっている。

     魏志倭人伝に「倭人の俗は、儀式や行事を行い、何かを言ったり行ったりする時は、骨を灼いて卜し、以って吉凶を占う」とある。青谷上寺地遺跡で全国で一番多い240点の卜骨が出土した。

     倭姫命世紀にある豊鋤入姫が巡った「倭の」笠縫邑は鳥取県琴浦町八橋であった。「倭の」彌和の御室嶺の上の宮は鳥取県北栄町下神の三輪神社であった。「倭」は鳥取県中部であった。

     倭国大乱は鳥取県を中心にした出雲族の反乱であった。倭姫(卑弥呼)と倭建の皇軍は鳥取県の出雲族(鬼・土蜘蛛・河童・蝦夷)を平定して倭国大乱は終結した。その後、倭姫(卑弥呼)と倭建の皇軍はさらに、西は長崎県・朝鮮半島、東は岩手県奥州市永岡神社までの広範囲を平定した。

     全国に社を建てて銅鐸祭祀を銅鏡祭祀の神道に改宗させた。全国の代表者を集めての祭祀は鳥取県北栄町下神の神浅茅原していた。その時、開化天皇や崇神天皇は豊田市の猿投神社に、倭迹迹日百襲姫は神戸市の旧生田神社にいた。

     しかし、鳥取県中部は東国から遠いため神道の祭祀は奈良の纒向ですることにした。しかし、奈良盆地には平定されたとはいえ敵対していた殷王朝末裔の準王一族(銅鐸祭祀の一族)が多く居たため、卑弥呼の安全な居所を探さなければならなかった。宇陀を出発し志摩国までめぐる「倭姫命世紀」は卑弥呼の安全な居所を探す巡行であった。

     卑弥呼(151年~248年)の居所は志摩国に定めた。魏志倭人伝に「南の邪馬壹国に至る。女王が都とするところ」とある。女王はそれまでの都(鳥取県中部)を離れて新たに邪馬壹国(志摩国)を都とした。邪馬台国は志摩国(志摩市・鳥羽市)であった。その時はまだ霞会館(藤裔会)の創った邪馬台国(志摩国)を封印するための伊勢国・伊勢神宮(大宮司は霞会館(藤裔会)が決定する)はなかった。

     奈良盆地の集落の環濠を埋めさせたのは190年頃である。卑弥呼が奈良の纒向で祭祀をするときは、伊勢神宮を通り・櫛田川沿いに高見峠を越えて吉野町宮滝経由で纒向に行き、帰りは和歌山の玉津島神社から船で何日もかけて伊射波神社まで帰った。卑弥呼の墓は鳥羽市安楽島町の「松の鼻古墳」である。

     伊勢神宮は、邪馬台国を封印するため、卑弥呼が纒向へ行く御幸ルート上に建てられた。明治期に入り、纒向と同じように神道の代表者を集めての研修・祭祀を伊勢神宮で始めた。

     台与は豊鋤入姫であり彦太忍信の娘の葛木志志見興利木田忍海部刀自(かつらぎししみよりきたおさかいべとじ)であった。第12代倭国王の屋主忍男武雄心の妹となる。第12代の妹は倭姫ではなく豊鋤入姫であり、神功皇后のモデルであった。豊鋤入姫は甥の武内宿禰と一緒に行動していた。豊鋤入姫は都を鳥取県中部(倭)に戻し、倉吉市鋤集落を本拠地にした。

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