地震被害から再建途上の熊本城 Kumamoto Castle

熊本城は、熊本県熊本市中央区(肥後国飽田郡熊本)にあった安土桃山時代から江戸時代の日本の城です。別名「銀杏城(ぎんなんじょう)」。
城内のご案内
0:13 坪井川と長塀(重文)
0:49 清正公銅像
2:23 行幸坂
2:55 特別公開南口階段
3:36 特別公開南ルート(特別見学通路)
5:06 見学通路から見る天守閣と本丸御殿
5:43 連続桝形(本来の登城ルート)
7:56 本丸御殿下の闇り通路
8:49 大天守と小天守
9:33 天守閣入口
11:26 大天守御上段模型
15:44 大天守最上階
17:44 解体保存工事中の宇土櫓(重文)

 加藤清正が中世城郭を取り込み改築した平山城で、加藤氏改易後は幕末まで熊本藩細川家の居城でした。明治時代には西南戦争の戦場となりました。西南戦争の直前に大小天守や御殿など本丸の建築群が焼失しましたが 宇土櫓を始めとする櫓・城門・塀が現存し、13棟(櫓11棟、門1棟、塀1棟)が国の重要文化財に指定されています。また、城跡は「熊本城跡」として国の特別史跡に指定されています。
 熊本市北区植木町の中心から南に伸びる舌状台地(京町台地)の尖端、茶臼山丘陵一帯に築かれた平山城です。現在の地名では中央区の本丸、二の丸、宮内、古城町、古京町、千葉城町に当たります。
 中世に千葉城、隈本城が築かれ、安土桃山時代末期から江戸時代初期にかけて加藤清正がこれを取り込み、現在の本丸にあたる部分の築城を行いました。 細川氏の時代になると城地の拡張と増築が盛んに行われ、西側に二の丸、三の丸が加わりました。明治時代の初めまでは大半の建物が撤去されずに現存していましたが、熊本鎮台が置かれた後に建物や石垣、曲輪の撤去や改変が行われ、西南戦争で一部の建物を残して天守を含む御殿や櫓など主要な建物を焼失しました。現在は、宇土櫓や東竹之丸の櫓群が残っています。1889年(明治22年)の熊本地震で石垣の一部が崩落し、改修された部分があるものの、ほぼ江戸期の姿をとどめ、城跡は特別史跡に指定されています(2012年時点で512,300.52平方メートル)。
 天守は1960年に鉄筋コンクリート造で外観復元され、内部は「熊本市立熊本博物館分館」となっています。2000年以降は門や櫓、御殿の一部などが木造で復元されました。
 2016年4月の熊本地震の際に、多くの石垣が崩落したほか宇土櫓などの文化財建造物、大小天守などの復元建築が被災し、修復が進められています。
 桜の名所としても知られており、日本さくら名所100選に選定されています。
 文献にもよりますが、日本三名城の一つにも数えられています。
 室町時代の文明年間(1469年 – 1487年)に肥後守護菊池氏の一族・出田秀信が千葉城(ちばじょう、現在の千葉城町)を築いたのが始まりです。
 その後、出田氏の力が衰え、大永・享禄年間(1521年 – 1531年)に菊池氏は代わりに託麻・飽田・山本・玉名4郡に所領を持つ鹿子木親員(寂心)に隈本城(くまもとじょう、現在の古城町)を築かせて入れました。1550年(天文19年)、豊後守護大友義鑑が家臣の謀反により殺されると、義鑑の弟で菊池氏を嗣ぎ、かつ義鑑と敵対していた守護菊池義武が隈本城に入り、寂心の孫・鹿子木鎮有はこれを迎え入れました。しかし、義鑑の子・大友義鎮により追われ、以後は大友氏に協力した城親冬が居城としました。
 1587年(天正15年)、豊臣秀吉の九州平定に際し、薩摩の島津氏に属していた親冬の孫・城久基は城を明け渡して筑後国に移りました。
 新たに肥後の領主となり隈本城に入った佐々成政は、秀吉の指示に反して検地を強行し、肥後国人一揆を引き起こしました。この時、隈本城は国人衆による猛攻を受けましたが、城代の神保氏張が死守して落城は免れています。1588年(天正16年)、成政は切腹を命じられ、加藤清正が肥後北半国19万5,000石の領主となり隈本城に入りました。
 加藤清正は、1591年(天正19年)から千葉城・隈本城のあった茶臼山丘陵一帯に城郭を築き始めました。1600年(慶長5年)頃には天守が完成。同年の関ヶ原の戦いの行賞で清正は肥後一国52万石の領主となりました。1606年(慶長11年)には城の完成を祝い、翌年「隈本」を「熊本」と改めました。これが現在の熊本城です。1610年(慶長15年)から、通路によって南北に分断されていた本丸に通路をまたぐ形で本丸御殿の建築が行われました。これにより天守に上がるには、本丸御殿下の地下通路を通らなければならないようになりました。
 1632年(寛永9年)、清正の子・加藤忠広の改易により豊前小倉城主だった細川忠利が肥後54万石の領主となり熊本城に入りました。忠利は城の長塀の南、坪井川を渡った所に花畑屋敷を造営し、以後、歴代藩主はここを日常の居所としました。
 加藤家の治世末期には、藩財政の疲弊や御家騒動により、城の修理もままならない状況でした。細川家が肥後入部時には、熊本城は現在の本丸周辺のみ整備されていて二の丸の一部と三の丸の大半は未開発でした。 このため細川忠利は入部後、直ちに熊本城の修繕を江戸幕府に申し出ました。この修繕は建築物の修理に留まらず、本丸の増築(二様の石垣に跡が見られる)・二の丸の整備にも及びました。更に上級家臣の下屋敷地や中級家臣用地として順次、現・三の丸や壺川地域(江戸時代中期まで三の丸扱いされていた)の開発が進められ、最後に西端の段山(現在の段山町周辺)の郭が完成したのは明治維新まで30年を切った天保年間でした。この時点で城内の櫓は焼失した森本櫓・硫黄櫓を除き62を数えていました。熊本城は細川氏の治世下で江戸時代を通じて拡張され続けました。
 幕末の熊本藩には学校党、実学党、敬神党の3つの勢力がありましたが、維新後の1870年(明治3年)に進歩的な実学党が政権を握り、「戦国の余物」「無用の贅物」であるとして熊本城の解体を新政府に願い出ました。これは諸藩の改革を促進したい新政府の意向を受けたもので、願い出は聞き届けられました。しかし、作業開始当日になって解体の方針は凍結されることになりました。藩知事細川護久の主導で進められた方針に対し、前藩知事で保守派の細川韶邦が不満であるなど、藩内に意見の相違があったためと言われています。代わりに、城内は天守を含めて一般に公開されることとなりました。
 それに先立つ維新直後の1871年、鎮西鎮台が設置されました。
 1871年(明治4年)の廃藩置県後は熊本県の県庁が二ノ丸に置かれ、同年に花畑邸鎮西鎮台(後に熊本鎮台に改められた)が置かれました。
 この時の熊本鎮台司令であった桐野利秋は老朽化した櫓、多重櫓の破却を指示し、特に西出丸は石垣を取り崩し、郭自体を破却しています。西南戦争前には天守・本丸御殿を中心とした本丸主要部のみ保存されていました。
 1876年(明治9年)の神風連の乱の時には反乱士族が鎮台司令官種田政明などを襲い城内の砲兵営を制圧しましたが、1日で鎮圧されました。
 西南戦争では政府軍の重要拠点であると同時に西郷軍の重要攻略目標となりました。西郷軍の総攻撃2日前、1877年(明治10年)2月19日午前11時40分から午後3時まで原因不明の出火で大小天守などの建物(同時に30日間の米、城下の民家約千軒)を焼失しました。焼失を免れた建造物は現存のものを除くと西竹之丸脇五階櫓・飯田丸三階櫓・札櫓門・六間櫓・書物櫓・堀預り櫓が確認されていますが、西南戦争後から大正期までに陸軍により順次破却されています。
 政府軍と西郷隆盛率いる薩摩軍の間には田原坂(たばるざか)の戦いを含む激しい攻防が行われましたが、熊本城は司令官谷干城の指揮の下、4000人の籠城で、西郷軍14000人の攻撃に耐え撃退に成功しました。なお、この戦いでは武者返しが大いに役立ち、熊本城を甘く見ていた西郷軍は誰一人として城内に侵入することができず、「おいどんは官軍に負けたとじゃなか。清正公に負けたとでごわす」と、西郷が嘆いたというエピソードが伝わっている。こうして清正公が心血を注いで築城した熊本城は、300年の時を超えてその防衛力の高さを存分に発揮することとなりました。
 1933年(昭和8年)、熊本城の現存建築が「熊本城」(種別:城郭 – 宇土櫓、監物櫓など計13棟)として旧・国宝保存法に基づく国宝(現行法の重要文化財に相当)に指定されました。同年、城跡は「熊本城跡」として国の史跡に指定されました。
 1945年(昭和20年)7月1日、市街地の20%を焼失した熊本大空襲など度々空襲に襲われるも、奇跡的に焼失を免れました。
 1955年(昭和30年)、「熊本城跡」として国の特別史跡に指定されました。
 1960年(昭和35年)9月22日、鉄骨・鉄筋コンクリート造の熊本城天守閣の落成式が行われました。
 1997年(平成9年)に熊本市が「熊本城復元整備計画」を策定しました。
 2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(92番)に選定されました。
 2007年(平成19年)、築城400年に際して、本丸御殿大広間をはじめ、西出丸の塀、戌亥櫓、元太鼓櫓、奉行丸の塀、未申櫓、南大手門などの建造物が数年かけて復元されました。なお、いまだ復元工事中や、工事未着手の建物もいくつかあります。
 2011年3月5日には観光施設桜の馬場 城彩苑が開業。
 2016年(平成28年)4月14日21時26分以降発生している最大震度7の熊本地震の前震と本震(4月16日1時25分発生)など、相次ぐ揺れで被災しました。
 4月14日発生の地震では、石垣の一部が6箇所で崩落したほかに石垣石の落下が複数個所で確認、重要文化財の長塀が長さ100メートルにわたって倒壊。天守・櫓の屋根瓦や鯱も落下と報じられました。
 本震の4月16日未明の被害については、熊本城総合事務所は「余震のため状況確認ができていないが東十八間櫓と北十八間櫓が倒壊した模様」。その櫓の一部が隣にある熊本大神宮境内建物の屋根を突き破りました。
 2016年6月10日の熊本市議会で石垣の被害について報告がありました。熊本城の全石垣約7万9000平方メートルのうち、50カ所の約2万3600平方メートル、517面で石垣の崩落、膨らみ、緩みがあり、そのうち、崩落は50カ所、229面におよびました。建物は前震のあった4月14日の時点では重要文化財建造物10棟に被害が確認され、その内長塀は80メートルの倒壊、瓦・外壁落下など9棟でしたが、本震のあった4月16日の時点で、倒壊2棟、一部倒壊3棟。他は屋根・壁破損など、重要文化財建造物での被害は13棟となりました。 そのほかに、復元建造物の被害は20棟におよび、そのうち倒壊は5棟。他は建物下部の石垣崩壊や屋根・壁の破損などの被害が報告されました。
 文化庁の試算では石垣の撤去や積み直しなどの作業に伴って、1平方メートル当たり150万円かかると見込んでおり、総修復費用に約354億円を要するとした試算を明らかにしました。今回の報告は石垣のみで、瓦が落下した天守や倒れた櫓・塀などはまだ被害の全容が分かっておらず、これらの修復費用の試算はされていないようです。
 熊本市の大西一史市長は2016年7月26日、天守の修復を3年で、また全体の修復を20年で終える目標を明らかにしました。天守閣の柱に使う鋼材は一般的なビルディングに用いられる物より薄く複雑な形状を求められるため、溶接などで前回の再建後に開発された新しい技術・工法が導入されています。この修理で内部にエレベータを設置することが決まりました。
 2021年1月29日付で長塀が、同年3月24日付で天守閣の復旧工事が完了し、今後櫓群の解体復旧・修復工事が行われる予定です。
 2022年11月22日、前出の同市長は復旧が当初の計画より15年遅れ、完全復旧は2052年度となる見直しであると発表しました。
2024年12月撮影

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