怒りを力に変える:「集団的自衛権の行使容認は、日本国憲法を踏みにじる暴挙です」 被爆者からのメッセージ 城薹美彌子

えっと、私の両親は中国に私が生後6ヶ月 の時 に新聞者の仕事で働きに行ってます。祖母 に預けられていたので当時は祖母と私と母 の下の妹3人暮らしでした。朝から空警報 が鳴って飛行機はまだ来とらんけん来るか もしれんだけどもう1回ねその暴久に行 けって言った私はでも1人でねあの山の 暴行に行けない です嘘ついたんです。ばあちゃん貼らない とかも歩ききらん動き切らんって。そし たらばあちゃんは急に優しいばあちゃん です。あ、そしたら仕方な方に寝とかねっ て仕事が住んだら連れてけんって言って 寝せられた。ちょうどそそん時に外からね 同級生が呼んだんですよ。みやちゃん遊ぼ うって。鬼ごっこ吸いよしてるよっておい でって呼びに来たんです。その声に私はて 立ち上がって行こうとしたわけです。たら ばあちゃんがこらって捕まえてこう捕まえ られたんでね。だもうそれは現骨が来る 予兆なんです。ああ、しまったと思って ばあちゃんごめんってごめんってその現骨 をこう止めたんですね。その瞬間 に赤いあの最初の写真があるでしょ。あの 熱戦見てないですよね。もう山影だから。 ちょうど爆信とは山のちょうど反対側なん ですよね。だからそういう見てないんです 。だから私がおばあちゃんとそのネト管理 とか言われた時に飛行機を多分通過して いってますね。で、本当の目的地は メガネ橋の近くのあの時はしてもしそっち にったら建山はもう直です。中いないと。 でもそれを通り越していってるので山影に なったわけですよね。だから命りしたけど もうそのあって瞬間は覚えてるんですけど もう後覚えてないんです。もう白かピンク の光がね、真横ね、ガンって 光でその後ね、もうどれくらい経ったか 分からないけど、祖母がみこみやこって 呼んでる声が聞こえてきて、ばあちゃんが 呼びよるねってああって思ってばあちゃん ばあちゃん助けてって言うけど声もでない ので動きもあんまりできなかったけどもう もがいてもいてねしてたら足を掴まれたん です。だから床下にね、落ちてたんです。 畳の上にいたのに。畳でも何でもめくれて もこんな状態になっててその下に私が逆さ に落ちて足をばあちゃんから引っ張りたね 。助け出されてる。で、その後おばとおば が私をお募して逃げたんです。で、連れて 行かれたらあのそこの中で色々してたん ですね。そして気づいたら眠ってる中で。 もうとにかく知らない人ばっかりで泣き ながらね、外に出たんですね。そしたら もう街がぐわーって燃えてるのが見えた。 で、山の裏側から裏側から立山のね、棒 登ってコンピラさんを超えてどんどんね、 被爆者がね、もう逃げてきて私ずにいる 暴風後にその入ってきてるんです。で、 ずっと寝せられていくのでもう周りはね、 あの単価単価じゃない。 と板の板に乗せられてきて置いていくん ですね。で、それで狭められてもうずっと 奥に行ってもう恐ろしくて私はもう 取り出したんですけど中にも入れないです 。で、暴空の外でずっとね、泣きながらも 日を見つめて泣きながらうん。いたらまた 眠って目が覚めたら翌日になってで翌朝に なったらまた飛行機の音がするんです。 それもう山の上にいるから飛行機が割に 近くに見えるんですね。でももうぐるぐる 関西機はなんかだと思うんですけど本んで もあってもうぐるぐる言っておらんことに なったと思ったらまた来るんですよ。それ を何度も繰り返すのでもう恐ろしくてね もうな泣き叫けんな。そしたらあの軽ボ団 のね、お前が泣いたらまた狙われるぞって 言って、もう恐ろしくて、で、なんか気が 気を持ってきてね、こ、燃えてませんから 。この山切ってきた気を私の家にかけてね 、私がもう木でうめられたんです。で、 その隙間からでももう恐ろしくて、え、 泣いてたけど、それが後から見たらあの 被爆後の 撮影確認ですね。アメリカ軍のね。 煙がってても撮った写真が後からいっぱい長崎に帰ってきましたよね。ああ、これだったんだって後から分かるんですよ。そんなで非常に恐ろしい思いをしてますね。もういいやすい。教え忍び方教を忍び持って鉄板のために体制をやかんとす。 あ、もう終わって嬉しか爆弾の落ちてるっていうことだ。 うん。飛行機 のま、それだけでしたね 。高熱が出て、もうひどく寒かったって いうのを覚えてるんですけどね。で、 そんな状態で行ってるのに家に入れないん ですよね。8人もいるから。しかも めちゃくちゃ変な格好になってるから入れ ない。で、糸井戸で一が明かしてたら次の 朝そこ のご父のお姉さん嫁に行ってきたね。 お姉さんがお米を持ってきたんですよ。 こんぐらい風呂に入れて。これは持ってね 、どっかに行ってくれっていう。で、それ でそこを立ち抜いてで、2件目はこの叔父 の1人の 姉さとに行ったね。で、そこ周りはです。 だ、そこはいいですよって言ったけど、 上がったところは馬小屋の2階だから はしごで上がらなくちゃいけないんですよ ね。下馬がいるんです。で、上はね、わが いっぱい置いてあるんです。そこに8人 寝ろって。で、2番ぐらいそこ寝たけど虫 がいてバラムの虫赤ちゃんに食いつくん です。で、ま、赤ちゃんがずっと泣くわけ ね。で、おばがね、もう泣きながらここに 折れな。どっか行こうって言うんですね。 で、みんなね、一緒にね、もう行こうって 言ってそこ出たの。したらまたその時私 まだ熱があって、歩けなかったんですね。 したらお父がどっかから自転車を借りてき て、その自転車に私を乗せてくり付けて ずっと連れて行ってくれて山国っていう川 を渡ったの。大分と福岡県の坂にある川 だって広い川をね、ずっと渡っていってで 、そして3元目の家に着いたところは堀の 弟の家だったのでそこにお嫁さんとか いっぱいいたんですけどそこで初めて 私たちは家に出ていただいた。で、私たち は全部たいでね、あの、歪みをさせて もらって、服もそこの娘さんの着せて もらって、そして1番出てきたのが白い ご飯 。夏の生気、証気に真っ白いご飯が住んで あるわけですよね。それを持ってきて食べ てくださいとおっしゃって、もうみんなで 初めて私は白いご飯が食べられたね。 でも私たちはその時に食べ物がなくて住む ところがなくて行っただけだったけど後 から考えたらまさに私は原爆のあの放射の プルーあれを避けていたってことが分かっ た。お隣の家族が次々に死んでいくんです よ。内部被爆は怖い。 で、私たちのおかげでその2 ヶ月間が離れてたっていうことでね、それを避けてたんだと 福島原発した時に私たちはとにかく再びもう同じようなね、被爆を出さない。 平和長崎からとか長崎でおしまい。 これでずっとやってきたわけでしょ。 ところが世界に向かってそんなこと言って たのになんとな日本の中で被爆者を出して しまった。この時にはね、被爆者として 非常に責任を感じた。避難者がいっぱいい たでしょ。あちこち回されたに行った先で いじめがいっぱい始まってるんです。あれ はね、私たちも感じたんです。福岡に行っ た時に入れてくれなかったりね 。赤ちゃんを盛りくなかったりね、色々 あったんですよ。 本当避難の時にあったねって。で、本当で も最後の家で私がね、山や川に行ってね、 あんなにして遊んでもらった時に元気に なったっていうことを私は思い出して、 じゃそれをさせようていうことで始めたの が長崎君 。私のだから自分の経験避難して非常に 良かったことをしてあげた 。それがもう10年続いた。 迷惑の話してって言われることあったけど いや私に大したことなかけんてだって 東子供やったけてやっぱり自分でも言って たんですよ。で、しかも私が学生の時には 中学校でも小学校でも中学校でも高校でも 現の話一切聞いてないです。やっぱなんか 平和に関する行政が止めてるんですよ。 うん。話すな、喋るな。うん。私が1 番やっぱりね、その原爆の話に関わったのはね、あの、五藤に行った時に五藤の子供たちがね、先生長崎から来たとねって長崎の話はしてって言ったんですよ。うん。て、じゃあ長崎はやっぱり原爆やねって言って、私が原爆をね、私のプラスにしたらそれを姉ちゃんや兄ちゃんに話して今度 6 年生の先生がしてくれませんかって言うんですよ。 6年に。で、いいですよってしたらもう その直後 包丁会長崎の話は長崎でしなさい 。ここは5等です。そんな話はしなくて いいって包丁が言ったんです。呼び出して 包丁室にはって言ったんですよね。私は 何師にが来たんですかね。五藤に長崎の 先生五に来たので何しに来る呼ぶんです かって言ったんです。それがもう私が ガーってなった。 始まってごに行った時にね、平和集会をしようってしたのね。だから平和っていう言葉がもうもうアレルギーなんです。だから棚端ならいいんですよ。 日教がやってるからダめだ。私は思いましたね。日教潰して 長崎に帰ってきて虹が丘に来た時にもう話さなくてやと思ってで学来た時に孫が生まれたんですよ。あ、最初に生まれた孫が脳をやられた。 やられててでの真剣発達見発達と言われた か言葉が出ない歩けないそういう子供が 最初まで2番目の子供は突然知私はもう 魔法がなくなった時に初めてね私は被爆者 だった思っ てその頃の安倍政権がどうし行ったから ですよね。もうあの集団的自衛権をもう 確実決定してバンバン進めたでしょ。で、 あれしたってことは戦争をするって可能 ですよね。もうそれにはね、我慢でき なかった。で、しかも閣議決定の我慢でき た。たった156年で当時に当日私早く 座ってたら確か閣議帰ってくんですよ。 ずっと座るのね。 私の目の前に向こう側でしたけど最後に安倍様来たけど はこの連中が閣議なんだって156 人ねこの人たちが日本の将来をねあんな風に決めたん原爆の芸能字も知らないの恐ろしさも戦争の恐ろしさも体験して誰も体験してなんであんたたちが決めるとって私たち相談っていう気持ちなんです。 もうこんなに任せておないで。今黙って たら認めることになるね。黙ってたら 認めるんですよ。もうこれはね、私たち 被爆者がね、もうそれはダめですよって 言わなきゃ私の指名だった。 前持ってあの市役所の人は打ち合わせをしてて書きで来てたんですけどニオハぐらいは変えていいですよって言われて言われてたからはいって言ってたんですけどもう手にハどころかもうもう部分でもいいからねことはもう私が代表になったんだから私の時間がでこれは世界上にやっぱりね訴えて日本のき爆者はそう思ってないんだってことね示してないんだってこと ね、はっきりしないとこのまま行ったらね、戦争なってるし、 同じことを繰り返してしまう。これは若いたちに申し訳ないという気持ちがもうガーって出てきた。 もう岸田さんになって広島出身ですとか 言い出したからああやった今度は頑張れる か戻るかなって思ったらなんとまたもまた 敵地攻撃なんてい出すでしょ。なんから 先制攻撃って言うでしょ。新犯攻撃先制 攻撃でしょ。それから適地を先にやったら ね、どんなお返しが来るかね。しかも核 共有とかね、出てきたら同じことの 繰り返し本当ね、原爆で私たちはどんなに 苦し思いをして亡くなっていったかですよ 。あの、ま、フロンゲになったりね、脅発 したり家族がバラバラになったりね、そう いうの全くわからない人 たち行為症と引きずって何台も何台も 繋がっていくその暮しを知らない。 それにね、攻撃なんてなんてな、何ていう ことっていうこ怒りでその怒りはね、私は 怒りは力に変えるっていうのがね、あの 偉い人が言った言葉なんですけど、怒りを 力に 変え私たちが平和に今までずっと80年 暮らしてきたこの平和、次の世代にも次の 世代にもね、この平和な暮らしは私たちが あの提供しなければいけない。 そういう責任があると思 ສ

城薹美彌子(じょうだい・みやこ)さんは、6歳のとき、爆心地から2.4キロの自宅で被爆しました。爆心地との間には山があるため、けがはありませんでした。このため、自分が被爆者だという意識は薄かったと言います。ところが、孫が障害をもって生まれます。それから、原爆の被害を詳しく知ろうと、多くの被爆者から体験を聞き取り、本にまとめる活動をしてきました。
 2014年、長崎市の平和祈念式典で、被爆者の代表として「平和への誓い」を述べました。安倍政権が憲法の解釈を変えて、集団的自衛権の行使容認を閣議決定したところでした。城薹さんは、あらかじめ用意していた原稿を変えて、「集団的自衛権の行使容認は日本国変法を踏みにじる暴挙だ」と訴えました。

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