【戦後80年】皆さんに一度は訪れて欲しい島があります。

今回の行き先は広島県二島です。 1945年8月6日の午前8時15分、 アメリカが広島市に原子爆弾を投化。爆信 地から離れ被害が少なかった二島には多く の被爆者が運び込まれ書としての役割を 担います。旧場所として二島が選ばれた 理由は本土との距離だけではありません。 二島は日進戦争を気に権疫所や捕虜となっ たドイツ人の収容所特攻隊の基地などが 置かれ当内の半分以上の土地が旧日本軍の 所有物になってしまったのです。軍の島と なった二の島には現在も戦争遺産が たくさん残っています。今年は終戦から 80年の節めの年。今回は独特の歴史を 歩んだ二島についてお伝えします。朝6 時代の船に乗るためにレンタサイクルで 広島港に向かいます。朝が早いこともあり 、市内に人はあまりいません。自転車をぐ こと15分。公安ビルが見えてきました。 公安ビルの左隣には松山行きのフェリー 乗り場がありました。すでに車やトラック が待機しています。広島でおな染みの路面 電車も走っており、広島港から広島駅まで を約35分で結んでいます。右方向に進む と低所と広島校ターミナルがあります。 当初は宇港と呼ばれており、ターミナルの 名称には宇の文字が入っています。電光 掲示板を見てみましょう。ここから広島湾 に浮かぶ二島や江田島、宮島、四国の松山 への定期線が発着しています。ターミナル は2003年に完成し、比較的新しい建物 です。6時30分発の二島行きフェリーに 上戦しようと思います。料金は片道 450円。往復を購入すると10円引きに なります。フェリーの中にはすでに多くの 車が載せられています。かり委員に切ッ符 を渡して上戦。仙内には25人ほど乗って いました。デッキに移動しましょう。 デッキは両側が競り出す独特の構造になっ ています。正面に綺麗な形をした山が見え ますが、あれが二島です。私が富士山に似 ていることから広島のかつての呼び名を 用いて秋の子富士と呼ばれています。仙内 には自動販売機があります。気温が高いせ か利用者が多かったです。広島港を出航。 ここから20分の船旅が始まります。左右 に整備された防波堤を通り抜けて広島湾に 入りました。広島湾は閉鎖性が高く塩の 流れは比較的穏やかです。 前方には黒い船が2隻止まっていました。 あれはガット線で砂利や石材を運ぶ船です 。船にはクレーンがついており、港に クレーンがなくても砂利を積み下ろしでき ます。二島ではかつて砂利の運搬が盛んで 周辺の海底から砂浜を取り広島県福山市に ある工場用地の埋め立てに使われました。 その後二島の砂利舟は全国各地へ進出。 東京湾では羽田空港やアクアライン、関西 では関西空港、神戸の公安地区の埋立てに 貢献しました。しかし砂浜最種の規制が 始まると徐々に衰退。中には千葉の木らず に移りジャリブ業を行っている人もいる そうです。 6時50分二島に到着。広島市南区に 浮かぶ小さな島です。その静かな佇まいと は裏腹に戦争の深い傷跡を追ってしまった 島でもあります。三橋には広島港に向かう 当民の方が待機しています。間もなく着眼 車が通るスロープの上には3人の係り員が 並んでいます。島を訪れる際にこの光景を よく目にしますが、個人的に好きな風景 です。着眼しスロープが降りると係員は まず原付バイクを誘導します。10代以上 のバイクが殺と走り出していきました。 その次にトラックや自動車が降りていき ます。プログラミングされたかのように 順序よく下戦していく様子を見ると乗客の ほとんどが常連客なのでしょう。下戦し 二島に上陸。港には小さな待ち合い所が ありました。船の時刻表を見てみましょう 。およそ1時間に1便のペースで運行され ており、離島を結ぶ船にしては便数が多め です。自転車置場には猫がいました。 近づいても逃げませんが、猫も人間には 寄ってきません。待ち合い所には猫用の水 が置いてありました。この時期は人間も猫 も水分をこまめに取る必要があります。 待ち合い所の前には鳥がありました。鳥井 には高神社と書かれていますが、車名は 恵比寿神社だそうです。鳥井と車電の間に 道路がある特殊な構造になっています。 通称浜宮という名で当民から親まれており 、車は1968年に再建されています。 車電の左側には再建に関する石碑があり、 昭和43年と書かれています。車電の右に は猫が2匹おり、上を見上げています。 視線の先には木に登っていた別の猫がい ました。フェリーが出航していきます。 20分で広島市街地へアクセスできるので 、通勤通学や買い物に出かける当民の姿が 多いです。船を持っている当民はフェリー を使わず自分の船で直行しているそうです 。 港の周辺は矢田という集落が広がってい ます。矢田地区は当内で最も古い集落です 。まずは港の周辺を歩いてみましょう。 まず左手にあるのが島の観光案内所です。 ここではシカヤックや自転車、釣り具の 貸し出しを行っている他バーム空作りを 体験できるそうです。その隣には氷の自動 販売機がありましたが故障中でした。右手 には大きな建物が立っています。これは 合同調車です。役所や公民館、診療所など が入っています。橋には消防書もありまし た。フェリーからもかなり目立つ建物で島 のシンボルとも言える存在です。合同庁者 の向い側には商店が営業していました。 商店は当内に5店舗あります。商店の奥に は町薬局がありました。診療所で診察を 終えた患者さんはここで薬をもらうよう です。その隣には秋屋をリノベーションし たカフェがあります。ここでは島の強度 料理が食べられるそうです。 ここからは矢田地区のメインストリートを 歩いてみましょう。ヤの由来は数少ない 兵事であり、住宅が密集していることから 家の下が矢田に変化したものと思われます 。まず最初に見えてきたのは郵便局です。 二島には1939年に郵便局が解局され ました。その奥には農京の建物があります がすに閉鎖されています。反対側には商店 がありました。今商店です。ちょうど回転 前の準備を行っていました。もあります。 こちらも回転前の準備中です。しばらく 進むとかなり年気の入った建物に出会い ました。これは長年クラとして使われてい た建物です。外壁は途端板で補強されて おり、今後も残される予定なのでしょうか 。昔は恐風の被害が少ないこの場所にを 立てて食料を保存していたものと思われ ます。左に曲がると正面にお寺のような 建物が見えてきます。これは説教です。お 寺ほどの規模はないため説教と呼ばれて いるそうです。説教所の近くには平田商店 というお店があります。店の入口に置いて あるアイス用の冷凍ケースが懐かしさを 感じます。ここまでヤジ地区を巡り、確か にのどかな島の風景はあったものの戦争 遺産は見当たりません。実は島の西側に 戦争遺産が集中しています。ここからは峠 を超えて島の西側に行ってみましょう。峠 を超えたところでフェリーの奇的敵が 聞こえると数分後に船から出てきた原付 バイクがこの道を通っていきました。この 先道が2手に分れています。二島歓迎交流 センターに行こうと思うので左に曲がり 細い道を進みましょう。下り坂を進むと 右側の斜面に不自然に塞がれた跡があり ます。これらは横穴式暴空号です。この 辺りには合計7つの暴空号が残っています 。当初は空習の避難場所として作られます が、その後は別の用途に用いられました。 それは何なのか?答えは向い側の二島臨海 公園にあります。 公園内には石費がありました。二島陸軍 権疫所後と書かれています。順を追って 説明すると日進戦争の際に機関兵が病原金 を持ち込んでしまい国内でこれらや里が 流行。1895年に陸軍が島の北側に第1 権疫所を設置。日路戦時にはこの場所に第 2権疫所が置かれ機関兵の武器などを消毒 。毛布などは蒸気消毒。熱に弱い川製品は 薬品によって消毒されました。60万人の 機関兵を牽役しましたが、これらの発生は なかったそうです。第1次世界大戦に入る と第2所は収容所として使われるように なります。日本軍は中国の賃貸に攻め入り 、咀嚼地として統治していたドイツ軍を 攻撃。1ヶ月の戦闘の末ちタオは陥落。 5000人のドイツ軍を捕虜として日本に 連行します。当時国内の人員や学校12 箇所に収容所が設置されていましたが、 どれも狭く管理に手間がかかり、戦争が 長期化すると収容所6箇所に統合。その中 に二島が選ばれ、権疫所に収容所を併設。 大阪の収容所にいたドイツ人の捕虜たちは 梅田から夜行列車に乗り翌朝広島に到着。 国鉄宇線に乗り換え宇駅へ移動し、船で島 へ上陸。近くに収容所に関するので見てみ ましょう。収容所と聞くと捕虜にひどい 扱いをするイメージを抱きますが、二島の 収容所はハーグ国際条約を守り強制労働は 行われませんでした。収容所内の行動は 規制されず、運動上でスポーツを楽しん だり、劇場の公園や勉強会も開催された そうです。捕虜の中にはちタオで歌点を 運営していたカールユハイムという人物が いました。 ハムは現在の原爆ドームである広島県物散 陳列館で開催された作品展示会に参加。 日本で初めてバーム空ヘを紹介します。 捕虜から解放されたUハムはドイツへ帰国 せず横浜で店を開きますが関東大震災の 被害を受け神戸で最出点。神戸本社を置く 洋菓子メーカーのUハムはそのお店が発症 です。一方で外出は許されませんでした。 理由は暮る海軍の鎮府といった島周辺に 軍事施設が多くあったからです。それでも 脱出を試みたものもいたようで、竹と サッカーボールでイカ田を作り、海へ 向かう姿を景官に見られ刑務所になった そうです。公園内には二島歓迎交流 センターという施設があります。かつて 二島臨海少年自然の家という施設で学校の 野外活動に多く利用されていました。24 年にリニューアルされ、一般の方も利用 できるレジャー施設に生まれ変わってい ます。公園にはプールもあります。深さ 30m以上から組み上げた地下水を使って おり、かなり冷たいそうです。立派な ウォータースライダーもついています。 宿泊の近くにドイツから送られた樹目が あります。それは母樹です。原産地は ヨーロッパで2004年に収容所が設置さ れたことを記念するとともに日族有効を 記念するためにドイツから送られました。 太平洋戦争を末期二島は広島大空に備え 医薬品などが備蓄され臨時休護所に指定さ れます。1945年8月6日にアメリカが 広島市街地に原子爆弾を投化。爆信地から 離れていた二島は爆風で家の窓ガラスが 割れる程度で大きな被害は受けませんでし た。午前10時を過ぎると被爆者が次々と 当内に運び込まれ、その数は1万人を超え ます。権疫所のあったこの場所に運び込ま れましたが、八田地区で紹介した二島説教 にも被爆者が搬送され、当民も急護活動に 当たったそうです。しかし被爆者の大半が なくなり島で仮装されることになったの ですが遺体の処理が追いつかず先ほどの 暴空号で一時的に暗知されました。暴空号 は全て穴が塞がれていますが、中には急護 活動で使われた包帯が残っているそうです 。公園内には権疫所の井戸が現存してい ます。この井戸水は被爆者の急護に使われ ました。被爆者は水を飲むとすぐに なくなってしまうため、軍は10代の少年 兵に水を与えないように伝えます。しかし 一部の少年兵は水を求める被爆者を無視 できず水を与えていたと言います。少しで も長く生かし家族に合わせようとした軍意 、水が飲みたいという望みを叶えさせた 少年兵両者の気持ちも理解できます。 亡くなった被爆者を仮想した施設の一部が 残っています。これは馬の償却路です。 かつてこの場所より南に権疫所という軍馬 の権疫消毒を行う施設があり、この償却路 は死んだ馬を償却するための施設でした。 二島に多くの被爆者が搬送された際には 亡くなった被爆者の遺体を質償却路で仮装 しました。しかし仮想が追いつかなくなり 償却路の敷地内で穴を掘って遺体をまとめ て仮装し埋葬されたそうです。海側には 被爆車を乗せた船が上陸した桟橋が残って います。現在は漁業に使われているよう ですが、案内版などは設置されていません でした。原爆が投化された後、広島の司令 部から500人の患者を受け入れる体制を 取れと連絡が入ったと言います。権疫所に 備蓄されていた医療品は5000人分あり ましたが、2倍の負傷者が運び込まれ、 わずか数日で物資が枯渇。現場の医療部隊 も相当混乱していたことは容易に想像でき ます。 続いて島の北側に行ってみましょう。道端 には魚に使われる資材が置いてありました 。奥にはこんなものもありました。全て ホタての貝殻です。これは牡蠣の養殖に 使われます。牡蠣は負荷すると2週間懐中 を漂って岩に付着する質があります。牡蠣 の養殖ではこの性質を利用し、ホタの貝殻 を懐中に入れて牡蠣を付着させるのです。 広島の川から流れ出る炭水が混ざり、牡蠣 の養殖としては最適の場所だそうです。 二島周辺には250の牡蠣の肩が島を囲う ように設置されており、どの角度から海を 見ても牡蠣のいが見えます。左側には老人 ホームがあります。その手前に古そうな 敷石が置いてありました。これは本土側に あった旧宇駅のプラットフォームです。 帰還した兵士やドイツ軍の捕虜たちが宇駅 で下者し、二の島に向かいました。この 式石を多くの兵士が歩いた歴史ある移行 です。式石の裏にはレールも保存されてい ます。これは先ほど訪れた権疫所後にあっ たもので権疫所校内をトロッコが走り物資 を輸送していたそうです。その横には慰例 費が置かれています。二島で被爆者の急護 に当たっていた軍西村之助によって 1978年に混流されました。続いて第 1所があった場所へ行ってみましょう。 しばらく海沿いを進んでいきます。前方に フェリーが見えます。実は二島三橋の他に 二島学園前橋があり、一部の瓶が気候する です。多くの人が下線していきます。 右側を見ると石中が立っていました。これ は軍が権疫所を設置する際に民友地との 教会を示すために建てられたものです。島 で切り出された石が使われています。背の 高い石中が海軍、小さな石中が陸軍のもの です。二島学園前三橋に着きました。 待合所にはトイレも併設されています。先 を進むと幅の狭い階段があった他、付近に はコンクリートやレガで作られたトンネル もあります。この奥にはかつて弾薬湖が ありました。弾薬湖は土類と呼ばれる森戸 で囲まれており、トンネルを通って弾薬湖 にアクセスしていたものと思われます。 弾薬湖の隣は二島学園という用語施設が あります。原爆日で親を失ったの施設とし て開行しました。 K4以外通行負荷と書かれた標識があり ました。この先は道幅が狭くなります。右 にある大きな岩にご注目。昔は離れ小島 でしたが、二島学園がある場所に第1所が 置かれたため立てられたのです。わずか2 ヶ月という特貫工事で権疫所が整備され ました。突如右手に大きな銅像が現れまし た。第1現役所を創設した五等神兵の銅像 です。この銅像は二島出身の実業家浜本松 が彫刻家の森大像に政策を依頼。足元を 見ると森大像のサインが書かれています。 太平洋戦時には金属類収例銅像を3つに 分割し空号に隠していたそうです。近くで 銅像を見ると線が入っている箇所を発見。 これが分割保存されていた痕跡です。戦後 には広島港の近くにあった宇老天然水族館 に移設。1992年に二島学園の敷地内に 戻されますが、去年に地元住民によって 道路から見やすいこの場所に置かれました 。案内版も設置され、五等神兵の鉱石が 称えられています。銅像に別れを告げ、 再び海沿いを歩きます。海を見ると柿用の い田がずらりと並んでいます。は竹製で イカ田の上に積まれているのは交換用の武 だそうです。海岸にはいかにも移行のよう な桟橋が2つあります。これは権疫所で 使われたもので、手前の桟橋は消毒を終え て広島港へ帰還する兵士が通っていました 。2つ目の3橋は権疫を受ける前の兵士が 通ります。奥にある四角いコンクリートに は弾薬を積むクレーンが設置されていまし た。2つの桟橋を使い分けることで国内に 電線病が持ち込まれるのを防止していたの です。この先にも移行があります。前方に レガ製の煙突を発見。近くまで行ってみ ましょう。これは焼却路の煙突です。 権疫所で出た医療廃棄物を燃やしていまし た。二島臨海公園に戻りたいと思います。 多くの被爆者が埋葬されている二島では 戦後から広島市が異骨を収集し苦養してい ました。異骨の調査は一旦終了したものの 当民からの要望を受け広島大学の研究員の 方が個人で現在も異骨の発掘調査を行って いるそうです。海岸には発泡スチロールが 漂着していました。あれは用殖のい田から 流出したものです。近年では広島湾に多く ある牡蠣のからパイプなどが山口県の沿岸 に漂着するケースがあいつに山口県が広島 県に対策の徹底を要望しています。 海を眺めているとものすごい速さで進む船 が見えました。あれは江田島へ向かう高速 線です。2023年に就航した比較的 新しい船です。お昼になったので二島歓迎 交流センターにある食堂でご飯をいただく ことにします。かきフライ定食やラーメン などメニューは豊富です。今回は日替わり 定食を注文しました。当内で食事ができる 数少ない場所です。 続いて島のもう1つの集落大王地区に行っ てみましょう。矢田地区に比べ住宅の数は 少なめです。集落の入口に沖の商店という お店がありました。大王地区唯一の商店 です。堤防の前には大量のタコツボが置か れていました。二島周辺は使様の流れが 良くタコツ量も盛です。その先には校舎が 見えてきました。あれは二島小中学校です 。学校の奥には慰例費がありました。毎年 慰例祭が取り行われています。隣に小さな 広場がありますが、かつてこの場所で異骨 の発掘調査が行われました。現在は花が 植えられ、奥には資料館も建てられました 。資料館は予約製です。ここからは島の南 にある深地区へ行ってみましょう。あまり 知られていませんが、深地区は特攻隊の 基地があった場所でもあります。峠を 超えると向い風が吹いてきました。前方に は再び海が見えます。海風が山を切り開い た道へ一気に吹き込んでいます。深地区に 着きました。前方に3橋を発見。石垣きが 崩れ風が進んでいます。その先には右側に 兵置があるのですが、かつて特攻隊の訓練 基地が置かれていました。舞台名は陸軍 船舶練習部大重教育隊。船に爆雷を乗せ敵 の軍官に突撃。この三橋は訓練の際に使用 されていたのです。留島の戦いや沖縄線で 実践に参加し、1636人が戦死しました 。海の向こうに枝田島がありますが、の 甲野裏に舞台の本部があったそうです。 現在その場所には選没者慰例費が立ってい ます。特攻隊は秘密部隊ということもあり 、訓練中に隊員がなくなった際、家族には 戦士としか知らされなかったそうです。 しばらく歩くと中野原地区に到着。前方の 建物は民宿です。道路の両脇は何もあり ませんが、昔この場所に特攻隊の宿舎が 立っていました。当初は要景場や農地が ありましたが、強制退去良儀なくされまし た。宿舎は残っていませんが、とある移行 が残っています。小道に入って先を進んで みると小さなトンネルを発見。これは軍用 トンネルで宿舎と山を超えた先にある燃料 貯蔵施設を結ぶために掘られました。 入り口以外はほぼ直線ですがなぜか出口が 見えません。少し不気味なので引き返す ことにします。しばらく歩いていると白色 三角標識版を発見。隣には二の島ポンプ場 がありました。水は本土から海底装水艦に よって送られています。右にグランピング 施設がありました。2022年にオープン したリゾート施設で観光客に人気の スポットです。海を見ると何やら怪しげな 構造物を発見。これは軍用三橋で先ほど 触れた燃料貯蔵施設に物資を運ぶために 作られました。桟橋は3つありましたが 現在は1つしか残っていません。 最初の地点二島港に戻ってきました。右側 にはフェリーに乗る車が待機しています。 ちょうどフェリーがやってきました。14 時30分発の瓶に挑戦します。この瓶の 所要時間は40分。行の瓶の2倍になって いる理由は二島学園を経由するためです。 出発2分前。当民の方が忘れ物を取りに島 へ引き返しましたが戻ってくることはあり ませんでした。二島港を出行。定期線を 運営しているのは二島期です。今年の2月 までもう1社運行していましたが、経営南 で撤退し、現在は二島期のみ。その二島 期線も厳しい状況が続いています。客室内 には原速運転という張り紙がありました。 これは燃料費の高等を受けでも燃料の消費 を抑えるためだそうです。経営が苦しい 理由は利用者の減少の他に二島港の割高な 形量が上げられます。広島港が国際拠点 公案に指定され、その中に二島校が含まれ ています。そのため軽戦量が月100万も かかり得田島より年間300万ほど高いの です。広島市は二島期に補助を行い、 来年度からは国から補助金の認可を受ける 予定です。フェリーは左に曲がりながら 二島学園三橋を目指します。右側には牡蠣 のい田があるのでぶつからないように進み ます。 二島学園三橋に到着。三橋には当民の他に 学校の子供の姿もありました。二島学園 三橋で20人ほど乗せ広島公園旅客 ターミナルが近づいてきました。乗り場は 10箇所あり、頻繁に船が発着します。右 には江田島からの高速線も見えました。 三橋に到着。赤字の状態が続く二島ですが 、当島民の足として欠かせない存在です。 戦争の記憶を風化させず、平和の尊さを 高生に伝えるために二島は静かにしかし 力強く存在し続けます。市街市から日帰り でアクセスできる距離にあるので、皆さん も是非訪れてみてください。今回もご視聴 いただきありがとうございました。

今年は終戦から80年の節目の年。今回は独特の歴史を歩んだ似島についてお伝えします。

【やま / 日本列島のフシギ】
このチャンネルは日本各地に隠された不思議な場所について、現地に足を運んで紹介するチャンネルです。

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チャプター
0:00 オープニング
0:49 広島港へ、そして乗船
3:30 似島に到着、島の最大集落を巡る
8:13 第二検疫所、収容所
12:24 臨時の野戦病院
14:58 遺構を次々紹介
17:33 第一検疫所
20:55 慰霊碑・特攻隊の基地・軍用トンネルと桟橋
24:09 所要時間が倍の便に乗船

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この度、「メンバーシップ」を開設しました。お手頃な価格ですので、ご興味のある方は以下のURLにてご確認ください。
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X始めました。
https://x.com/yama_travel_

・参考資料
後ほど記載します。

bgm-「神樹の園」「武具商店ロストスレイヤーズ」「世界の旅路」
パンダの中のパンダ様

18件のコメント

  1. 字幕の訂正
    8:09 実は島の西側に戦争遺産が集中しています。
    →島の東側

    8:14 ここからは峠を越えて島の西側に行ってみましょう。
    →島の東側

    今回もご視聴いただき、ありがとうございます。

    島民の方と話す機会があり「8月は似島の遺構を訪れる人が多いです」と仰っていました。
    「現在も世界のどこかで戦争が起こっているのはとても悲しい」という言葉が一番心に刺さりました。

  2. 似島に特攻隊の訓練基地があった事を初めて知りました。若者が特攻して行った事も初めて知りました。ありがとうございます。感謝します。

  3. フェリーの旅は短時間でも
    趣がありますね
    似島の事は初めて知りました
    閉じられた防空壕の中には
    いまだに包帯が残されている話は
    悲しくなります
    この後に戦争遺構のトンネルにはちょっと入れませんね😱

  4. 祖母が去年まで住んでいて私も幼い頃からよく行っています。今も空き家や土地の管理に定期的に行っています。
    島によく行くのに戦争の話や船業の話は祖母や島の人にはあまり聞かず外の方から聞くことが多いです。
    人口も減り、空き家や土地も多く、独特の風習のようなものも多いのですが、島の自然は大好きで宮島も隣に見え海で遊べ、山登りも盛んです。
    多くの人に見てもらい今後の島を考えるきっかけになるかと思います。
    お伝えしてくれてありがとうございました。

  5. グーグルマップで平田商店前見ると
    説教場に神社の参道、こじんまりとした広場があって
    街の広場って感じ

  6. この似島にゆかりの深いカール・ユーハイムと奥さんのエリーゼさんのWikipediaを読んだところ、その波乱万丈ぶりにびっくりしました。

  7. 広島の方ではないのですよね? よく調べてらっしゃる。
    県民ですが、山の方なので、似島自体、かなり大人になって知りました。しかも、知人がいるので、そこのお宅しか行ったことがない💦 それも、随分行ってないので、かなり様変わりしてる💦
    せっかくだから、ゆっくり見てみたいですね。

  8. 似島汽船に乗りたいですね。広島にも行きたいと思いつつ行けてません。島自体穏やかでいいですし、最初の猫ちゃんらに心奪われました😍

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