山口県の廃村・史跡・気になる場所を見ていこう

■恩徳寺(おんとくじ)の「結びイブキ」は、山口県下関市にある恩徳寺の境内にある、国の天然記念物に指定された珍しい樹形の巨木です。

樹種とサイズ: ヒノキ科の常緑高木であるイブキ(別名ビャクシン)の巨木です。高さは約6m、目の高さの幹周りは3.4mに達します。珍しい樹形:地上約2mのところで多くの枝に分かれます。
さらに地上約2.5mのところで、多数の枝が複雑に絡み合い、まるで結び合わされたような珍しい樹形を形成しています。枝同士が癒合(くっつくこと)して、塊状になっている箇所も見られます。

歴史:恩徳寺は、1529年(享禄2年)に戦国武将・大内義隆の夫人である花の方が建立したと伝えられています。寺の由来を記した書物には、寺が建立された当時、すでに周囲約1.5m、高さ約4.5mの大きさで、枝葉が四方に伸び、その面積は33㎡に及んでいたと記されています。
伝説: 「お花と重蔵」という切ない伝説が残されています。愛し合う二人がこの木に触れると結ばれるという言い伝えがあり、縁結びのパワースポットとしても知られています。
文化財としての価値: このようにイブキ特有の発育を遂げた非常に珍しい例であることから、学術的にも価値が高いとされ、1955年(昭和30年)に国の天然記念物に指定されています。

■大明炭鉱は、かつて日本の主要なエネルギー源の一つであった石炭産業において、山口県美祢市を中心に栄えた大嶺炭田の中核をなす炭鉱でした。

この炭鉱の最大の特長は、国内では珍しい高品質な**無煙炭(アンスラサイト)**を豊富に産出した点にあります。無煙炭は、燃焼時に煙や臭いがほとんどなく、高い火力を長時間維持できる特性から、軍艦や製鉄所の燃料、さらには家庭用暖房など、幅広い用途で重宝されました。特に日本の近代化と軍事産業の発展を、エネルギー供給面から支えた重要な存在でした。

大嶺炭田での石炭採掘は江戸時代から小規模に行われていましたが、明治時代に入ると本格的な開発が進み、昭和初期から中期にかけて最盛期を迎えました。旧大明炭鉱の周辺地域には、多くの労働者とその家族が暮らす社宅群や、病院、商店街などが整備され、炭鉱夫たちの活気あふれる生活拠点として栄えました。

しかし、1950年代後半からのエネルギー革命により、主要なエネルギー源が石炭から石油へと移行すると、炭鉱の経営は急速に悪化しました。この時代の流れに抗えず、大明炭鉱をはじめとする大嶺炭田の多くの炭鉱は、1960年代から1970年代にかけて次々と閉山し、その歴史に幕を閉じました。

現在、当時の壮大な炭鉱施設はほとんど残っていませんが、美祢市には「美祢市歴史民俗資料館」や「美祢市化石館」など、大嶺炭田の歴史を伝える貴重な資料が展示されています。旧大明炭鉱は、単なる鉱山ではなく、日本の近代化を支えた産業遺産として、そして多くの人々の生活と文化を育んだ場所として、今もなおその歴史を静かに伝えています。

■美祢炭鉱荒川水平坑 / 大嶺無煙 炭鉱坑道跡地
美祢炭鉱の荒川水平坑は、山口県美祢市にあった大嶺炭田の主要な坑道の一つで、日本の近代産業史において重要な役割を果たした場所です。その特徴と歴史、そして現在の姿を詳しく説明します。

歴史的背景
美祢市は、かつて日本最大級の無煙炭の産地である大嶺炭田の中心地でした。無煙炭は、煙や灰が少なく火力が強いのが特徴で、特に海軍の軍用燃料として重宝されました。
荒川水平坑は、この大嶺炭田の発展を象徴する坑道の一つです。

開坑と技術革新: 荒川水平坑は、明治30年(1897年)に開坑しました。この坑道の特筆すべき点は、大嶺炭田で初めて軌道(レール)と炭車が導入されたことです。これにより、石炭の採掘から搬出までの効率が飛躍的に向上しました。

近代化の象徴: 荒川水平坑の坑口から内部に続く約30メートルの区間は、レンガでアーチ型に補強されています。これは、当時の坑道技術の標準的な様式であり、坑道の安全性を確保するための重要な工夫でした。また、坑口にはコンクリートによる装飾が施されており、近代的な炭鉱施設としての格式を示しています。

閉山: 時代とともにエネルギーの中心が石炭から石油へと移行し、石炭産業は衰退していきました。荒川水平坑は1991年(平成3年)に操業を終了し、その後、大嶺炭田全体も2002年(平成14年)に閉山を迎えました。

現在の状況と文化財としての価値
荒川水平坑は、閉山後もその歴史的価値が認められ、貴重な産業遺産として保存されています。

美祢市指定有形文化財: 坑口とレンガ巻き坑道は、その歴史的価値から2001年(平成13年)に美祢市の指定有形文化財に指定されました。これにより、明治時代の貴重な炭鉱遺構として保護されています。

見学: 現在、荒川水平坑の坑口は一般に公開されており、間近で見学することができます。ただし、老朽化による危険性があるため、坑道内部への立ち入りは原則として禁止されています。

ジオサイト: 荒川水平坑跡は、「Mine秋吉台ジオパーク」の文化サイトの一つにも数えられています。炭鉱の歴史だけでなく、地質や自然環境との関連性も学ぶことができます。

美祢炭鉱荒川水平坑は、ただの炭鉱跡ではなく、日本の近代化を支えたエネルギー産業の歴史を物語る重要な場所です。レンガ造りの坑道は、当時の技術と人々の労苦を今に伝えています。

■旧船木鉄道の大棚トンネルは、山口県宇部市吉部地区にひっそりと佇む、大正時代の鉄道遺構です。地域の歴史と自然が織りなす、心安らぐ場所として知られています。

歴史的背景
このトンネルは、かつて宇部市と美祢市吉部を結んでいた船木鉄道の一部として、**1926年(大正15年)**に完成しました。全長約37メートルと短いながらも、周囲の山々を越える重要な役割を担っていました。しかし、太平洋戦争が激化した1944年(昭和19年)、国の方針により万倉〜吉部間の線路が鉄材供出のために撤去され、船木鉄道は廃線となりました。

構造と特徴
大棚トンネルは、石積みとレンガ造りのアーチで構成されており、大正時代の堅牢な土木技術を今に伝えています。時を経たレンガの風合いと、苔むした石積みが醸し出すノスタルジックな雰囲気は、まるで時が止まったかのようです。特に、新緑や紅葉の季節には、トンネルを囲む豊かな自然と一体となり、神秘的な景色を見せてくれます。その風景は、しばしば「ジブリの世界のようだ」と称されます。

現在の状況
廃線から80年近くが経過した現在も、トンネルは良好な状態で保存されています。周辺の廃線跡は地元住民によってきれいに整備され、桜並木が美しい散策道として親しまれています。鉄道ファンやハイキング愛好家だけでなく、静かな自然の中で歴史を感じたい人々にとって、人気のスポットとなっています。トンネルの入り口近くには案内看板があり、旧吉部小学校のグラウンド奥から歩いて数分でアクセスできます。訪れる際は、懐中電灯と歩きやすい靴を用意することをお勧めします。

旧船木鉄道の大棚トンネルは、単なる廃線跡ではなく、地域の暮らしと歴史を物語る、かけがえのない遺産です。

■万倉の大岩郷(まぐらのおおいわごう)は、山口県美祢市奥万倉に位置する、国の天然記念物「岩塊流」です。その広大な規模と独特の景観から、「岩の海」とも呼ばれています。

1.概要と規模
標高約300mのなだらかな斜面に、幅100m、奥行き150m、面積にして約27ヘクタールという広範囲にわたって、無数の巨大な岩が重なり合っています。これらの岩は、直径1mから最大7mにも及ぶ巨大なもので、圧倒的な迫力で見る人を魅了します。岩の材質は石英閃緑岩(せきえいせんりょくがん)という深成岩で、周辺の山地と同じ地質であることから、遠方から運ばれてきたものではなく、この地で形成されたものであると考えられています。

2.形成の謎
万倉の大岩郷がどのようにして形成されたのかは、完全には解明されていません。しかし、現在、有力とされている説がいくつかあります。

風化・浸食説: 地中深くでできた石英閃緑岩が隆起し、地表近くで長い年月をかけて風化が進んだという説です。岩石には元々、「節理」と呼ばれる割れ目が存在し、この割れ目に沿って風化が進み、粘土質になった部分が雨水などによって洗い流され、硬い部分が岩塊として残ったと考えられています。

地殻変動による山崩れ説: 大昔の大規模な地殻変動によって山が崩壊し、その後に風化・浸食を経て現在の姿になったとする説です。

これらの地質現象が、気の遠くなるような時間をかけて、他に類を見ない奇勝を作り出したと考えられています。

3.見どころと特徴
万倉の大岩郷は、その景観の壮大さだけでなく、植物学的な価値も有しています。岩と岩の間は日差しが遮られ、湿気が保たれるため、暖地性の植物をはじめ、多種多様なコケや地衣類が繁殖しています。

また、観光客のために遊歩道が整備されており、間近で巨岩の迫力を体感することができます。日中に訪れると、ゴツゴツとした岩の迫力ある光景を楽しむことができますが、夕暮れ時には、西日に照らされた岩々がロマンチックな雰囲気を醸し出し、昼間とは異なる幻想的な風景を楽しむことができます。

4.文化的背景
万倉の大岩郷は、山口県に2ヶ所ある大岩郷のうち、もうひとつの吉部の大岩郷よりも規模が大きいとされています。古くからこの地域に伝わる「巨人が天秤を担いで岩を運ぶ途中でこぼれ落ちてしまった」という民話も残されており、地域の歴史や文化と深く結びついています。

この貴重な自然遺産は、1935年(昭和10年)に国の天然記念物に指定され、今日まで大切に保護されています。

■安徳天皇 西市御陵墓参考地は、山口県下関市豊田町地吉(じよし)にある、安徳天皇の墓と伝えられる場所です。
「陵墓参考地」とは、宮内庁が、天皇や皇族の陵墓である可能性が高いと認めているものの、学術的に確定するに至っていない場所を指します。
宮内庁によって「安徳天皇西市御陵墓参考地(王居止御陵)」として指定されており、神聖な場所として管理されています。

由来と伝説
寿永4年(1185年)、壇ノ浦の戦いで平家が滅亡した際、幼い安徳天皇は祖母である二位の尼に抱かれて入水しました。その御遺骸は、源義経の指示により、この地に埋葬されたと伝えられています。
遺体を運ぶ途中で、棺が突然動かなくなったため、この場所に埋葬されたという伝説が残されています。
また、近くには、安徳天皇の御衣(お召し物)の汚れを洗い清めたと伝えられる「御衣洗の池」や、「古刀出土の地」の石碑もあります。

所在地と現状
所在地: 山口県下関市豊田町地吉

特徴: 豊田湖のほとりに位置し、木々が生い茂る静かな場所にあります。入り口には石段があり、宮内庁の立ち入り禁止を知らせる立て札が設置されています。

陵墓参考地とその他の安徳天皇陵
安徳天皇の御陵は、宮内庁によって下関市阿弥陀寺町にある**阿彌陀寺陵(あみだじのみささぎ)**が正式な御陵として治定されています。
しかし、壇ノ浦の戦いで入水したのは身代わりであり、安徳天皇は平家の落人とともに各地に落ち延びたという伝説が日本各地に存在するため、安徳天皇の陵墓参考地も複数存在します。

宮内庁が指定する主な安徳天皇陵墓参考地
安徳天皇西市御陵墓参考地(山口県下関市)
岡益の石堂(鳥取県鳥取市)
鞠ヶ奈呂陵墓(高知県高岡郡越知町)
佐須陵墓参考地(長崎県対馬市)
花園陵墓参考地(熊本県宇土市)

これらの場所は、いずれも安徳天皇の伝説や伝承が残る地であり、それぞれの地域で大切に守られています。

地元での行事
西市御陵墓参考地では、毎年4月24日に、安徳天皇の冥福を祈る盛大な式典が地元の人々によって行われています。これは、壇ノ浦の戦いがあった日(旧暦3月24日)にちなんだものです。

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