【日本一細い島?】形がヤバすぎる謎の島に上陸してみた!何があるのか?

今回は形がやばすぎる島をご紹介します。それがこちら。 細すぎて草。おた弱士みたい。 おそらく日本一細い島ではないでしょうか。この島は兵庫県にあるヶ島、淡路島のすぐ東に隣接する無人島です。なんとこの島上陸できるらしいので実際に訪問してみて何があるのか、なぜこんな形になったのか検証していこうと思います。 ということで兵庫県市にある須本バス センターにやってきました。いろんな方面 からの高速バスや路線バスが集結する 淡路島最大のターミナルです。まずはここ から淡路交通の路線バスで島への船が出て いるゆというエリアへ移動します。相市 市街を出ると進行方向左手に大阪湾が見え てきました。バスは海岸線に沿って進むの で大シンビューの絶景が楽しめます。 しばらく進むと突如して大規模な建物が 目立ってきました。相線の旅館軍です。中 でも一際は大きな旅館がこちら。ホテル ニュー淡路CMに独されたなんでやんの民 は節をつけないと発音できません。周囲に はニュー淡路の車宅がいくつもありかなり のマンモス旅館だと見て取れます。温泉街 を過ぎると再びオーシャンビューが楽しめ ます。海の向こうに見える軍島が友ヶ島。 そのまた奥にうっすらと見えるのが本州南 大阪から和歌山の辺りです。今度はすぐ 近くに緑に覆われた島が現れました。これ が今回の目的地の島。全然細長くないやん と思うかもしれませんが、今見えているの は頭の部分です。よく見ると電柱が立って いて、無人島ながら人の手が加わっている ことが確認できます。一体何があるの でしょうか?映像の右側からだんだん 細かい尻尾の部分が荒わになってきました 。これは確かに細そうすぎる。あの部分に 行くことも可能なので実際にどうなって いるのか確かめてみましょう。 須本バスセンターからゆらゆラ揺られる こと約20分。ゆらじ書前で下しました。 現在地はこんなところ。淡路島のほぼ最 登端となります。淡路島がフライドチキン だったら一口目に被ぶりつきたくなる部分 です。そしてこのすぐ東側に細長いヶ島が 隣接しています。一見淡路島の一部のよう ですが、確かに海で隔立てられていて、 独立した別の島となっています。港の 向こうに一直線に伸びているのが島。地元 では向いと呼ばれているそうです。島が 防波堤となっているおかげでゆは天然の良 となっています。ゆの街並を見渡すと 小さな町という雰囲気ですが、古くから 海場交通の要少として境があり、江戸時代 には短期間ではありますが、淡路島の中心 だった時期もありました。また明治時代に は大日本帝国陸軍によってユ要塞が気づか れた場所でもあります。地図をご覧の通り と和歌山県の方との間が淡路島とキー半島 との距離が最も狭くなるところでまさに 大阪湾の入り口となっています。そのため 大阪湾への外国線の侵入を阻止するための 重要な防衛拠点としてゆやかその間に 浮かぶ友島一体に要塞が気づかれたわけ です。そしてユラの町に要塞司令部が置か れました。この小さな町が防衛の金辺だっ たのです。島にも砲台が設置され、移行が 残っているのでこの後実際に見てみ ましょう。ゆから島へは除います。この プレハブ小屋が島と千場の事務所。ここで 受付をします。料金は大人往復300円。 カー水木曜日は定休日なので訪れる際は 注意が必要です。受付でパンフレットを もらいました。一応時刻表があり、1時間 に一便設定されていますが、他に乗客がい なければいつでも船を出してくれるようで 、受付したらすぐに3に案内されました。 この小さな船で渡ります。操縦は気作な 感じのおじいちゃんでした。ゆ港から出て いる旅客用の船はこの都線のみ。現在は 貨物線と漁選が中心の港となっていますが 、かつてはのフェリーが出ていたそうです 。また前回の動画でご紹介した地本厚路も 一王だけゆ港に気行していたそうです。 そんな昔の賑やかな光景を想像しながら港 を横断します。わずか1分半ほどで奈ヶ島 に到着。ガチで一瞬の船旅でした。帰りの 瓶も事務所に電話をすればいつでも迎えに 来てくれます。自己表を気にしなくていい のでありがたいですね。ということで島に 上陸しました。他に人の気配はなく、 おそらく現在この島にいる人類は私1人 だけでしょう。まずは船つき場のすぐ目の 前にあるビシャモン天堂にお参りします。 江戸時代の文正5年1822年にユラの 漁師が漂着したビシャモン天を拾い上げを 立ててお祭りしたのが始まりだそうです。 船つ場の周辺にはいくつか建物が並んでい ます。公衆トイレもあるので安心です。 ただこの日は水道が出ませんでした。に よってこんな時に限って手におしっこつい ちゃったからショック。公衆トイレの横に 淡路花変路なる看板がありました。お花を つむってか違います。淡路島の77箇所の 花の名所が四国のお変露に名ぞらて花の 札所に指定されていて島はその1つとなっ ているようです。こちらの案内図によると なるヶ島には気少を含む約300種類の 植物と多くの海岸動物が生息しているとの こと。自然を守るために草を追ったり 塩ひ狩石の裏返し焚き火などの行為が禁止 されています。記念撮影にぴったりな看板 がありました。島は瀬戸内会国立公園に 指定されています。今度は淡路橋と刻まれ た石碑がありました。細長い島の景観が 日本産系の天の橋に似ていることからそう 呼ばれているそうです。本家の天の橋との 1番大きな違いは独立した島となっている ことでしょう。それではまずは島の頭の 部分にある展望台に登ってみましょう。 左右どちらからでも展望台に行けるよう ですが、右の道は放落箇所があると除の 受付で説明されたので左へ進みます。 しばらく海岸沿を進み途中から山道に入り ます。島の頭の部分は成山という標52m の山となっています。実はこの成山は白跡 でもあります。江戸時代の京長18年 1613年に姫路城上城池田照正の3に よって山にゆ城が気づかれ浦は淡路島の 支配の拠点となりました。ところが2年後 の原那元年1615年にアハ八ス市の 支配下に変わると由は土地が狭すぎて まともに浄化町が経営できないとして拠点 を須に待ちごと移すことになり栄 にゆ城は廃場となりました。このことを ゆ引と呼び、それ以来淡路島の中心はと なっています。一方、その後も由海の 玄関口としての機能は顕在で参金交代の際 に阪種が立ち寄る場所となり、江戸と大阪 を結ぶ日垣回線の気候地にもなりました。 そして明治時代になると由要塞が気づかれ 、再び軍事拠点として重要な役割を果たす ことになります。この島にも明治24年 1891年に成山放題が設置されました。 軍事を守るため、一般人は島への立ち入り ができなくなり、島の撮影はもちろん小学 生の射生すら禁止されていたそうです。 山道の途中に石垣きがありました。ゆ城 時代なものか、それともゆ塞時代なものか 、はたまた両方に転用されたものか、上部 に排水溝らしき穴が開いています。今度は レガ済みを発見しました。説明がないので はっきりとは分かりませんが、おそらく 要塞の移行でしょう。何らかの施設があっ たことは間違いありません。真っ赤なカが いました。Googleレンズで調べた 限り赤手ガニでしょうか。船月場から歩く こと15分ほどで山頂に到着しました。 解放感のある芝フ広場が設けられています 。この場所は戦後に国民宿舎山として整備 されたそうです。軍事拠点だったこの島も 戦後はレジャースポットに生まれ変わり ました。丸ヶ島と名付けられたのも実は 戦後になってからで1948年のこと 1962年に国民宿舎が開業すると キャンプや海水浴などで賑わったそうです 。ここで1975年の航空写真を見てみる と当内にいくつかの建物が確認できます。 これらは全て解体されてしまったようで 原損していません。一時期は賑やかだった 国民宿舎も次第に客が減少し1986年に 廃業しました。それ以来、なるヶ島は無人 島となり、現在は自然を楽しむのどかな スポットとなっています。本当にいろんな 時代の歴史が詰まった島なんですね。芝フ 広場を過ぎるといよいよ展望台に到着。 ここが素晴らしい絶景ポイントとなってい ます。 こちらが展望台からの景色。まさに淡路橋 の相性がぴったり日本にも決して劣らない 見事な絶景です。天の橋立てに習って またきもしておきましょう。映像を 180°回転させただけだけど、天の橋の 景観は龍に例えられますが、こちらは もっと細いので蛇といったところか。島は 全長が約3kmに対し、幅は最も広い ところでも330m、最も狭いところは わずか15mしかありません。尻尾の 先っぽの部分は少し膨らんでいて、高崎と 呼ばれています。後でこの近くにも行って みましょう。それにしてもなぜこんな魔か 不思議な形の島が誕生したのでしょうか? 実はこの島は人の手が加わったことで こんな形になったのです。元々はこのよう に成山と高崎がそれぞれ別々に淡路島と 繋がっていました。その反対に成山と高崎 との間は離れていてここがゆ光港への唯一 の入口古川口となっていました。カみたい な形だったわけですね。ところが江戸時代 は3交代の気候地となりましたが、この 古川口は狭すぎて大型線が出理できません でした。そこで名和2年1765年に成山 と淡路島との間に新川口を屈作。さらに 分成6年1823年に高崎と淡路島との間 に今川口を掘作し、成山と高崎はそれぞれ 独立した島となりました。一方で使われ なくなった古川口は沿岸流によって次第に 砂が溜まりさとなってなる山と高崎が 繋がりました。こうしてあまりにも細長 すぎる島が出来上がったわけです。ここが 江戸時代に屈策された今川口。確かに昔は 繋がっていたおかげを感じる地形ですね。 そして展望台の後ろに何やら丸い穴が開い たコンクリートの構造物があります。これ が由菜なる山放題の移行観測所の後です。 敵の位置を監視し、距離や速度を計測して 攻撃の指示を行うための施設でした。中の 様子はこんな感じ。四角い柱の跡が残って いました。ここに観測装置が設置されてい たようです。第1次世界大戦後は主戦場が 海から空に移ったため、これらの要塞施設 は実践で使われることなく終戦を迎えまし た。この芝フ広場も砲大の後地ですが、 戦後に国民宿舎が建設された際に破壊され たため移行はほとんど残っていません。 芝フ広場から少し山道を入ったところに 配神社がありました。調べたところ山 大明人という神社だそうですが、おそらく 国民宿舎が廃業して以来管理する人がい なくなってしまったのでしょう。 駆け崩れで立ち入り禁止になっている道も あります。展望台を降りる途中にはこんな 立派な石みも残っていました。これも要塞 の移行なのでしょうか。 とは別の道で船つ場まで下ってきました。 軽トラが止まっていましたが誰もいなかっ たのでずっとここに置いてあるのだと思い ます。船場の東側にも芝フが広がってい ます。過去の航空写真ではこの周辺に建物 が確認できたので国民宿舎の関連施設が 立っていたのでしょう。何やら意味ありげ な石中を発見しました。陸軍処活地と刻ま れています。確かに要塞があった証拠です 。今度は石団を発見。その上には立派な費 が立っていました。戦没車を記念するため に立てられた石碑ですね。島の案内は自然 観察スポットの案内のみで要塞以降につい ては一切記載されていません。除線事務所 でもらったパンフレットも同植物の解説が メインで歴史の解説は少なめでした。軍の 島だったことは忘れたい歴史なのかもしれ ません。それではいよいよヶ島の細いサの 部分に行ってみましょう。一体どんな光景 が広がっているのでしょうか?浜辺にやっ てきました。こちらは東の外海側です。 ここでは綺麗な紫色の花が多く咲いてい ました。これはハゴフという海浜植物で ここが群落地となっているようです。浜フ は主に外海側で見られます。外海側は塩の 流れや波の影響を強く受けるのに対し 内海側は波が穏やかなのでこんな狭い島で も東西で全く食性が異なるのだそうです。 砂浜にはペットボトルなどのゴミが落ちて います。大阪湾を漂流してきたもの でしょう。今度は内海側にやってきました 。こちら側は日型が広がっています。訪れ たのは大塩の日の館長の時間帯だったので 日上がって海底の泥が荒わになっています 。 しばらく南下するとまた石炭が現れました 。これも由菜の移行かと思いきやどうやら もっと前のものらしいです。こちらは江戸 時代末期に気づかれた六本末大の後、安静 元年1854年にロシアのプチャーチンが 大阪湾方置きに来たことをきっかけに幕府 の名により大阪湾周辺の各所に防衛のため の代場が気づかれました。以前に取り上げ た酒井の大浜公園もその1つですがやはり 大阪湾の入口となるこの地も防衛の金めと して大場が気づかれたわけです。 この六本大パは五角形ったですが、現在は西側の面の石垣きしか残っていません。ゴミ袋が大量に置いてありました。漂着物を拾い集めたのでしょう。漂着物は美感を損ねるだけで、少な動植物にとっての脅威でもある 地域の人々によって期的に掃が行われているです。こちらは外鬼側の海岸いい天気なので左は兵庫、右は歌山まで州が見えます。 この砂浜は赤海ガが散乱のために上陸して くるそうです。だんだん左右の幅が狭く なってきました。この先が鳴が頭まで最も 細い部分となりますが、残念ながら 立ち入りはご遠慮くださいとのことなので ここで引き返します。向こうの膨らんで いる部分が島の最難の高崎 アンキロサウルスの尻尾みたいになってい ます。この高崎にも立派な石垣きが確認 できますが、あそこも爆末機に気づかれた 台の移行。高崎大馬は文年1861年に 幕府の名によって徳島班が気づいた フランス式放題で大砲64問を備えていた そうです。船つ場に帰ってきました。概半 ほど島に滞在したことになります。結局 最後まで他の観光客とは遭遇せずっと1人 りっきりだったようです。都事務所に電話 をするとすぐに帰りの船が迎えに来てくれ ました。この都国民宿舎の廃業後に1度 廃止され、島には上陸不可能だった時期も あったそうですが、1997年から地元の 漁によって再開されたそうです。島を 訪れる際の注意点としては当内に売店は もちろん自販機もないので飲み物の時は 必須です。特に夏場は持っていかないと 大変なことになりかねません。さて、今度 は島の南側に隣接するお石というエリアに 移動し、立ち入り禁止となっている高崎を 近くから見てみようと思います。バスも ありますが、時間が合わないので歩いて いきます。珍しい配機を発見しました。紐 を引っ張ると温まる駅弁みたいなのが販売 されていたようです。おに到着すると 美味しいものが食べたくなってきたので 回線料理のお店に立ち寄りました。淡島 名物の生丼セットを注文。卵黄と専用の タレをかけていただきます。高級な卵かけ ご飯って感じで最高に美味しいです。一気 に描き込んであっという間に完食。 生シラス丼は飲み物でした。ゆ港から 3kmほど歩いておの海岸に到着しました 。海岸に見えるのが島の南タの高崎。頂上 には東台が立っています。高崎とおしの間 を隔立てるのが江戸時代に屈作された 今川口。かつてはこちら側と引き続きでし た。ここに高崎大場の立派な石垣きが残さ れています。この石垣は山にあった城から 転用したものだと言われていて、現在も 蓄上した際の刻印が残っているそうです。 高崎大馬は明治信後も由菜の高崎放題に 回収され、昭和初期まで使われ続けました 。江戸幕府が気づいた台が陸軍の砲大に再 利用されたという珍しい例となっています 。右側はコンクリートになっていますが、 この部分は1961年の第2室と台風で 石垣が放落してしまい、コンクリートに 回収されたそうです。こちらは由菜地の 記念費、成が鹿島の両橋の成山と高崎、 そしておにも砲台が設置されていたことが 確認できます。解説には興味深いことが 書いてありました。戦後に要塞撤去を進め た市出身のことに香るという方が軍の土地 を利用してキャンプ場を解説し、昭和40 年代半ばまで多くの観光客で賑わったそう です。今度は高台にあるお医石公園に行っ てみましょう。この辺りが由菜の主力だっ た場所で多くの移行が残されています。 早速林の中にレガ済みの構造物がありまし た。これは由菜の発電所だそうです。 さらに登っていくとイカついアーチのレガ 済みが現れました。こちらが第4砲台 アート。おには第1から第5まで5箇所の 砲台がありますが、この第4砲台が最も 低い標に位置しています。そのため主に船 の側面を攻撃するのを目的としてほぼ水平 の弾道となる可能法が備えられていました 。対岸の和歌山ので届く射程距離があった そうです。防災の再編成で戦事中に廃止さ れた砲題も多くありましたが、この砲題は 重要性から終戦まで存続したとのこと。 レガには日々が入り、中には放落したレガ も見られます。現在は上から木が追いし げっていますが、昔は北端海峡が丸見え だったはずです。この辺りはすでに放落し て自然に帰りつつあります。 続いてはおみ先展望台にやってきました。 ここから期端海峡を一望することができ ます。こちらがさっきまでいたヶ島。 やっぱりめちゃくちゃ細いですね。対岸が 和歌山県でその手前に見える島が沖縄。 この島を含めた周辺の4つの島の総称が 友ヶ島です。あそこにも要塞が気づかれ ました。淡路島と友ヶ島との間は揺ら瀬戸 と呼ばれ幅がわずか4.7kmしかあり ません。大阪湾の入り口となっているここ を敵に突破されるとやばいので両サイド から攻撃できる体制を整えたわけです。 下ヶ島の方は要塞の移行がよく残っていて 、それが近年ではラピュタの世界みたいだ と言われ、多くの観光客で賑わっています 。私はまだ友ヶ島には行ったことがないの で1度行ってみたいのですがぶっちゃけ このチャンネルで取り上げるには有名 すぎるんですよね。期端会だけに期端なく 言いました。この期端海峡を釣り橋または 海底トンネルで結ぶ構想もあり、四国新 幹線のルート案の1つにもなっていますが 、現時点で実現の目とは立っていません。 もし釣り橋で実現すれば明海峡大橋を 超える世界最大級の釣り橋となります。 ああ、北海峡夏式帰りは須市コミュニティ バスで市街に戻ります。ということで今回 はあまりにも細長すぎる島なるヶ島を探検 しました。歴史と自然が両方楽しめる魅力 的なスポットなので皆さんも言ってみては いかがでしょうか。ご視聴ありがとう ございました。

兵庫県洲本市、淡路島に隣接する細長すぎる無人島『成ヶ島』に行ってみました。
江戸時代には城、明治時代には要塞があった!?

【参考文献】
由良の門・成ヶ島の要塞 歴史さんぽ
https://awajishimamuseum.com/yura_narugashima/

小学生の写生さえ禁止された「淡路橋立」、天橋立にも引け取らない絶景なのに知名度は今ひとつ|読売新聞オンライン
https://www.yomiuri.co.jp/national/20211128-OYT1T50196/

貴重な自然残る無人島 兵庫県洲本市の「成ケ島」 瀬戸内の〝天橋立〟絶景楽しむ|産経ニュース
https://www.sankei.com/article/20240412-LPUDMMXPMROSXKJCXO4TEMPEIA/

淡路島洲本の歴史巡り|洲本市
https://www.city.sumoto.lg.jp/soshiki/34/17983.html

その他Wikipediaなど

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#旅行 #島紹介 #無人島

44件のコメント

  1. 序盤、動画見ながらホテルニュ~ア~ワ~ジ~と口ずさんだ直後に突っ込まれて恥ずかしくなった。

  2. 子供の頃、もう55年前に由良のフィッシングセンターで泊まって向かいの由良島で海水浴してました。

  3. 【ホテル・旅館】
     違いを調べると、ホテルの廊下は外の扱いで、旅館の廊下は内ってことらしい。
     旅館は客室で浴衣等に着替えて大浴場に行って良いけれど、ホテルだと浴衣等で廊下を通行するのは NG らしい。

  4. 加太 のイントネーション・発音は、ドラゴンクエストの呪文「メラ」に近い抑揚なんだぜっ🔥

  5. 約60年ほど前にキャンプで行きました、多目的広場あたりがキャンプ場になっていてバンガローもあり、テントを張って缶カレーを食べて由良町の映画館に行きました。台場があったとは全く知りませんでした。

  6. 横須賀の猿島みたいな島ですねー
    歴史的遺構が多いのでもっと整備されて欲しい

  7. あー由良のとこにあるあれか
    よく釣りであの辺行くけど地域猫が集まってる釣り場があって無料猫カフェみたいになってる

  8. すげー!前々から行ってみたいなって思ってました。
    14:36 アカウミガメの産卵地としては和歌山だと南部のあたりのイメージがあるけど彼らはこんな北の方まで来てくれるんですね。

  9. 海洋ゴミや海の多様性保全、地域住人の保全活動を学ぶ場として そっち系の大阪民からは有名っす
    海と日本プロジェクト 使って大阪から毎年2団体?バスツアーでてますし

  10. なんかもったいないなあ、これほどのスポットならいくらでも活用できそうだ。ただ利便性が悪い。ここにキャンプ場や釣りスポットなんて作ればいくらでも人が集まりそう。ただ交通の便が悪すぎるからこれを何とかしないとなあ。和歌山からの直行便とかあれば大阪南部からの人なら来てもおかしくない。

  11. 渡船料金安すぎない?
    何の利益もないだろうに続けてくれてるのはありがたいですね

  12. 大潮の日の干潮・・・そうだよね。こんな地形を訪問するならそのタイミングだよね。
    しかし大潮で干潮時間帯で好天で、しかも渡船が運行している日じゃないとこんなきれいな動画撮れませんよね。お疲れ様です。

  13. 孤島ミステリーとかのアニメの舞台に使われた事ないのかな?コナンとかで連続殺人モノ作っても、閉じ込められた、逃げられないって展開は出来無さそうだから、そして誰もいなくなったは出来ないなw

  14. 私も40年前、高校生の時、キャンプしたことがあります!砂浜というより石の浜だった記憶があります。

  15. 数年前沼島に行ったおり、次はここに行ってみようと思っただけで実行していませんでした。今秋中にぜひ行こうと思います

    9:45 しかし始めは北海道野付半島をイメージしていたが、そうではないことをここで知り、目からうろこです。またおかげで一つ利口になった。

    19:35 友ヶ島行くのでしたら天気穏やかな平日がお勧めです

    冬晴れた日に行ったら、波が高いので終日運休と空振り出戻り、行楽シーズンに行ったら船着き場には長蛇の乗船待ち、あれだけの人が連続で渡り、帰り一斉に戻り船に乗ろうとする光景を想像すると天邪鬼な私には出直しせよと第3の私から指令がきました。

  16. 広いので自転車持ち込みたくなりますが、国立公園だと怒られそうですね。
    これだけ整備されていて無人島はもったいないなぁという気も。わざわざ住む必要性も無いのだと思いますが。

  17. ・30年前は(道路が狭すぎて)由良支所前なんてバス停なかったんですよ。
    ・淡路花へんろのスタンプラリーで高確率でお米が当たります。

  18. 砲台は「忘れたい戦争の遺跡」と言われますが、違うと思います。砲台は黙って、大阪湾周辺の人々を守っていたんですね。
    でも、いい動画です。

  19. 地元の者ですが対岸の由良では皆成山と言います。昔は国民宿舎があり日本各地から自然学校のような感覚で来島していたものです。親類がその宿舎で働いていました。まだ明石大橋も鳴門大橋も無かった時代、対岸の漁師町の人間からすればもの珍しい観光客が無人島で一晩・・まああの島も色々ありました昔は。因みに由良側の灯台付近、生石埼では戦前にレンガの要塞が築かれ終戦後の米軍統治下にほとんどの施設が進駐軍に爆破解体されましたが今も残骸が残っています。

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