【秀吉の罠】最強の男がなぜ!?本多忠勝が千葉に置かれた「驚愕の理由」
秀吉に「天下無双」、信長に「花も実も兼ね備えた武将」と称賛された戦国最強の武将・本多忠勝。
57回の戦でかすり傷一つ負わなかった彼が、なぜ江戸から遠く離れた千葉県・大多喜(10万石)に置かれたのか?
「房総の里見氏を警戒するため」とよく言われますが、当時の勢力図を深く掘り下げると、到底それだけでは説明のつかない「奇妙な空白」と「不自然な石高」が浮かび上がってきます。
実はその背後には、徳川家康の力を削ぎ、江戸を丸裸にしようとする豊臣秀吉の恐ろしい罠(盤外戦術)がありました。そして、窮地に立たされた家康が打った「水陸の反撃策」とは……?
関ヶ原の戦い、そして幕末の「徳川斉昭(水戸藩)」へと繋がっていく、壮大な歴史の伏線回収の旅へご案内します!
【目次(タイムスタンプ)】
0:00:00 オープニング:本多忠勝はなぜ千葉・大多喜に?
0:00:45 本当の脅威は里見氏ではない?関東の勢力図
0:02:01 江戸の喉元に迫る巨大勢力「常陸の佐竹氏」
0:03:06 徳川家臣の人事に介入した豊臣秀吉
0:04:00 徳川三傑を分断する「秀吉の罠」
0:07:04 家康の苦渋の決断と、本多忠勝への密命
0:08:10 反撃の切り札?犬猿の仲「本多正信」との連携
0:09:29 10年後の関ヶ原!佐竹・里見の運命は
0:12:02 忠勝のその後と、胸を打つ辞世の句
0:13:12 幕末(徳川斉昭・松代藩)へと繋がる熱き血筋
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11件のコメント
小田原合戦中、秀吉はやっぱり遊んでなんていなかったんですね。
前からなんで忠勝は今の木更津とかの内房側ではなく、内陸の大多喜に?と思っていたがそういうわけだったのか!
本多忠勝が好きです🎵
井伊様の冑は橙の帯色があります😮
怖い怖い、秀吉は波ではない。出る釘は打たれる。秀次が、千利休が、この言葉を玩味していたら無駄に腹を切らずに済んだだろうに。それにしても家康の所世術、わかちゃいたけどこちらも恐ろしいな。徹底して逆らわん。
里見ナメられて可哀想
後北条の目の上のたん瘤なのに
本多忠勝といえば山田裕貴忠義の人
徳川斉昭の父、徳川治紀の母親・一条溢子(斉昭の祖母)が本多忠勝の子孫です。一条溢子は本多忠勝の玄孫にあたる池田綱政の血を引いていたことから、斉昭が岡山と鳥取の池田家に慶喜の兄弟を養子として送り込んだ経緯があります。鳥取池田家の現当主は徳川斉昭の息子二人(同年生まれの池田慶徳と徳川慶喜)の子孫です。
忠勝は、鳥居・酒井・大須賀のバックアップできる場所に配置されたように見える気がしなくもない。
忠勝はスグには大多喜に入れず、城が完成するまで数年間近隣の山深い場所を仮城として過ごしたと言う記録が有ります。また大多喜に向かう道すがら、現在のおゆみ野周辺で謎の武装勢力から襲撃を受けたと言う地元伝説も有ります。どうやら千葉県南部は北条氏や里見氏らがシッカリ管理出来ていたワケでは無く、平安時代の上総氏の流れを組む「地図に載らない半農半武の小勢力」の宝庫だったようで、必ずしも油断出来る状態では無かったようです。江戸入府後、家康は鷹狩り用に千葉方面に直線道路『御成街道』を整備しました。その終着点には忠勝が攻め落とした千葉氏一族の城があり、家康はそのそばに鷹狩り用の宿泊施設を作り、周辺を慰撫する為にワザワザ天海を派遣しています。コレはおそらく秀吉の江戸侵攻に備えてのモノだったのではないでしょうか?秀吉の江戸徳川攻めが実現していれば、家康は大多喜方面を最終決戦地と考えていたのカモ知れません
オオタキと言えば大多喜の
五郎蔵ではないの?盗賊の五郎蔵